超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。


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僕は純文学が書けない。

僕は純文学が書けない。


3.11であるね。この日になるとブログで何を書くべきかいつも悩む。震災を風化させるのもどうだろう? と思うけど、人によってはあの災害はPTSDを引き起こすぐらいの嫌な記憶であるし、綿密にそればかりを書き綴るのも良くないかなと思うんである。


まぁ、ひとまず僕的には3.11は、Yahooで3.11を検索をすると10円ばかし募金になる企画なんかを紹介して終わろうと思う。


www.search311.jp


ちょっとYahooの検索結果を眺めてみたけども、やはりこの東日本大震災は僕にとっても嫌な記憶だ。この頃僕は東京の渋谷あたりの会社の独身寮に住んでおり、渋谷駅が計画停電でいつも薄暗かったことを思い出す。あの頃はブラック企業に勤めて連日サービス残業をしてた頃なので、それも含めてあんまり楽しい記憶がない。


今年は1月1日に能登半島地震もあったであるし、この日本という土地は本当に地震に弱い。だからこそ普段から防災の備えをせねばならぬということなので、僕も今日は帰ったら防災バッグの点検でもしておこう。以前に災害が怖くて防災バッグを買ったのであるが、中の非常食や水などは賞味期限があるはずなので日付を登録してあるアプリを確認しよう。


まぁ、ほんと災害のことなんかを思い出すのは嫌だよね。沖縄は地震がない土地ではあるけど、毎年のように大きな台風が通過して大停電とかがよく起きる。去年も3日ばかし停電するような台風があり、その時に防災バッグの中にあった手回し充電ラジオが活躍した。


まぁ、普段から防災の備えをするために防災バックを点検したりとか、住んでる地域の避難場所の確認とかをする日に3.11をすると良いですよ。どこで大雨とか地震が起きるかは分からんですからね。普段からの備えというのがいざという時に効果を発揮する。こういう防災訓練とかも普段からちゃんと、やっとくといざという時役立つはずである。


さて、切り替えていきますか。このまま震災の話ばかりを掘り下げていくとまたしてもセンシティブな記事になるはずである。このところやたらにアグレッシブな筆致の記事が続いたので、そこまでとんがったブログ運営をしたくない僕はダラダラと日常を綴るのである。


自分が書いてる文章の文体というのにたまに悩む。僕はこうやって毎日ブログ執筆することを習慣にしてるけど、自分が書いてる文章というのはそこまで優れた文体であるとは思わない。


僕はブログの読み書きが趣味であるので、他にもいろんな人のブログを読んだりなどするのだけど、中にはすごく文章がうまくて唸らされる記事を書くような書き手もいるのである。きちんと日常生活の中から解像度を高くして出来事を抜き出して、それに伴う自分の気持ちなどを墨痕鮮やかな筆致で描き出してる文章があったりする。


僕は趣味で小説も書いたりするけど、プロの書いた小説なんかを勉強のために読んだりするとその解像度の高さに嫉妬まじりの感心をしてしまうのである。最近僕は、Audibleで川上未映子著の「夏物語」を聴きながら通勤してるけど、そこで描き出される情景なんかに、「この人はこんな細かなところを見てるのか」と驚かされるばかりである。


僕自身が書く小説というのは、基本的にエンタメ小説である。いまいち僕の肌感的に、純文学というのは合わないなと感じることが昔から多い。どうも僕は人間の薄暗いところというのを見るのがあまり好きではなく、カチッとそういうところを物語的なフレームワークで割り切ってパターンで人間を描き出すドライな書き方というのが好きである。


いや、何だろ。僕の感覚では、人間的な弱さを描きだそうと文章で書いていっても、最終的にはハッピーエンドで終わらせてしまおうというバイアスが掛かってしまうというか、持ってるバイアスで「ハッピーエンド至上主義」のようなやつが割と強いんである。


小説で人間の暗いところを書こうと思うのなら、その毒を自分で服毒しなければならないところがあるんであるけど、どうも自分の持ってる毒に真剣に真正面から向き合うと、そのままメンタル的に潰れて再起不能とか文章を書くこと自体が嫌になる。持ってる毒が猛毒すぎて、そこからうまく逃れることで何とか正気を保ってるという感じ。


エンタメ小説だと、そこんところの毒をなんとなく薄めて、それっぽいフレーバーで匂わせる書き方というのができる。僕はそれが得意である。うちの子二人の小説があるけど、あの二人は普通にかくと裏にある設定が重すぎるキャラクターである。そこのところをまともに描き出すのではなく、ポイントポイントでパーツを散りばめるというやり方をするのだけど、自分で書いていてもの足りないなと感じる。


自分の弱さを自分で認めて、自分の中の解毒作用でもって毒に対抗しながら言葉を紡ぐことが純文学を書いたりする時には重要な考え方になるのだけど、どうも僕は思考の粘り強さがないためか、そうやって真剣に自分の内面に向き合おうとすると紋切り型の表現や展開に逃げてしまいがちである。


自分の弱さに負けてずるずると逃げ回るよりはマシかと思うけど、どうも僕の内面で出来上がってる自己防衛のフレームワークというのは強固なやつらしくて、感覚よりは論理で物事を考える癖ができてしまってるらしいのである。頭の中で浮かんでるネガティブな思考に対して、「ならどうする?」と問題解決的な発想が浮かびがちであり、弱さに対する共感力が足りない。


マッチョとウィンプという分類があるけど、マッチョには純文学は書けないのではないかと思う。いまいち僕は弱さに対する共感力というのが欠けているのである。問題があるのなら解決しなければという発想になりやすい。こういうのは流行りの言葉だと「ネガティブケイパビリティ」とかで弱さをちゃんと抱えられる人が純文学は書けるのだと思う。

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