評価されたいと思うのなら工夫するのは普通よね。
サムネイルの写真は僕が休日などにぼんやりしたい時によくいくカフェの写真である。海を見るにはちょうど良いロケーションなので、気を抜きたい時によくいく。今日はちょっとポッドキャストで聞いて気になっていた「日経マネー」という雑誌を買ってパラパラとめくりながらコーヒーを飲んでいた。日経マネーについてはアクティブ投資家の読む雑誌という感じで、自分には役に立ちそうになかったけど、こんな感じで資産運用関係の情報も色々と調べてみたいものだと思っている。日経新聞社の出版してる本でウォーレン・バフェットの自伝があるらしいのでそれは興味があるから図書館で借りて読んでみたい。
さて、今日はどうしようかな。一日中やることが多くて、ブログにもあんまり時間を割けるような感じでもないのである。夜からエディターを開いてキーボードを叩きまくってるけど、ブログに書くネタについてもノープランである。
とりあえず、こういう時ははてなブログのお題でも使って軽く今日のブログを終わらせてしまうとしよう。
特別お題「今だから話せること」
今だから話せることねぇ。まぁ色々とあるけど、僕の過去というのはかなり不穏なやつばっかりなので、その中から適当な話題を選び出すのがめんどくさいんだよな。病気やってた時の話なんかもしっかりと書けばそれなりに需要はあるかと思うけど、あの手の話題というのは書きながら自分のメンタルを削ってるようなもんなんだよね。いずれしっかりと僕が病気だった時期にあったことを総括したような小説とか書いてみたくもあるなと思うけど、少しづつやらないとメンタルやられて自分が瀕死状態に陥るのは目に見えてる。
僕は色々と訳アリだから過去のことってそこまでペラペラとは喋んない。や、このブログの読者諸氏であれば大体のことは全部ブログに書いてしまってるので、僕の過去のことなんかは色々と知ってると思うけど、改めて自分の過去を掘り返してそれを恥も外聞もなく晒すのも考えもんだなーと思ってる。
というか、過去の記憶を思い出してみて今だから話せることの話題という風な種類の話というと、大概の場合は過去の恥の話だと思うんすよね。僕の人生なんてものは太宰治の「人間失格」の言葉を引用するまでもなく恥の多い人生なんだよね。現在進行形で過去の恥を引きずってる部分もあるし、過去の因縁がまだ解消されてない話題もあるため今だから話せることと思って話すと寝首を掻かれる話題というのもたくさん持っている。
まー、でも、40年も生きればそんなもんじゃない? 人生万事塞翁が馬であるし、良いこともあれば悪いこともあろう。人生80年と考えるとちょうど中間地点ぐらいの年齢であるけど、どうも僕の人生というのは洒落にならんぐらいの悪いことというのが頻発するような人生であった。今になってこうやってブログをのんびりと書けているのが不思議なぐらいで、下手をしたらどこかでくたばってもおかしくないような半生であるのよね。
昔、どこかのエッセイの書き方の本で読んだことがある教訓なんだけど、他人の手柄話ほど読んでいてつまらん話はない。どうも、他人から承認されたい欲求を臆面もなく出している文章というのは嫌な臭みがある。そういう承認欲求を出していてもおもしろい書き手というのはいるけども、自意識でギトギトしていて長期間そういう書き手が継続的に綴る文章を読んでいると疲れてくる。
これは僕の個人的な好みの部分もある。僕はどうもあまり表現において、自分の感情を前面に出して露骨な文章を書くのを嫌うという所がある。これはブログで書いている文章でもそうだけど、それだけじゃなくて自分の書いている小説もそうである。文学のジャンルには純文学のようにリアルな感情描写を描きだして人間の在り方を問うものもある。しかし、僕は表現というのは型があってこそ成り立つものだと思う。
僕が文章を書くうえでモットーにしてる言葉があるけど、「型にはまらない自意識は見るに堪えない」という言葉だ。感情をナマのままで曝け出す行為というのは恥ずかしいことであるという思いがある。とくにそれが承認欲求のようなものである場合、その感情をそのまま何の捻りもなくぶちまける行為というのは、やったのが他人の場合でも共感性羞恥でなんかダメ。生々しいものの場合、読んでられない。
ものを書く人間が誰かに認められたいという感情があるのは当然のことではあるけど、ありのままの自分をそのままで認めてもらおうとするのは抵抗感がある。人間のエゴというのは、美しいところもあれば醜いところもある。自分の存在すべてが誰かに受け入れてもらえるというのは素晴らしいことであるが、僕は何の工夫もせずに普段通りのそのままの自分を誰かに認めてもらおうという態度は相手を馬鹿にしてると思う。
工夫が過ぎれば単なる美辞麗句であるけども、その表現したい感情を他の人が読んで理解できるように歩み寄る態度というのは書き手には必要な心構えだろう。読んだ人が楽しめるような工夫も何もなしに、自分のナマの感情を調理もせずに素材のまま出して、それで評価されたいというのは虫が良すぎる。文章を書くことはコミュニケーションの手段だ。読んだ相手の気持ちも考えずに一方的に想いを押し付けるのは、僕は好きじゃない。
京極夏彦の小説の「嗤う伊右衛門」で登場人物がお岩さんに言ったセリフで今でも覚えているやつがあるんだよね。顔が病で爛れてしまってもとくに気にせず普段通りのすっぴんの顔で見合いの席に出ようとしているお岩さんに対して、心根が綺麗であることは素晴らしいがそれを他人から認められたいと思うのならば化粧をしなさい、という風なことを言ってるキャラクターが居たんだよね。心というのは外からみても分からないものであるし、それを誰かに認めてもらいたいと思うのならば多くの人が受け入れられる表現にすることは普通であると思う。