京アニ事件の判決をうけて、世の中について考える。
やっぱこれは書かんとならんか。京アニ放火殺人事件の青葉被告に死刑の判決が出た。今のところ弁護士も控訴を出すような予定もないので、これで決定かもしれない。
この事件については個人的にすごく気になる裁判なので、ずっとNHKなどの報道でどんな内容なのか聞いていた。結果はどうであれ、この事件というのは自分のような統合失調症を患ってるような当事者にとっても他人事ではないと思ったからだ。
ここんとろの考えについては以前もブログで書いた。この事件についてはこちらのようなことを考えている。
青葉被告が統合失調症だったかどうかということは報道では流れなかったが、それは社会の反応を気にしてのことではないかと思う。詳細はわからぬが、この病気の偏見を強くしないように報道各社が配慮した結果なのかもしれない。
僕自身の気分は、青葉被告が死刑が決まったからと言っても判然としない気持ちを抱えている。妄想を持った人物が、日本犯罪の歴史でももっとも多い人たちを殺した。それが裁判で裁かれたといえども、罪は本当に償えるのか。また、本当に悪かったのは青葉被告だけなのか?
裁判の中では青葉被告の生い立ちであるとか、人生についても語られたようなのだが、それほど良い暮らしをようでもないし職も転々としてたらしい。また、妄想を抱えつつも周りからの介入を拒否するような態度も取ってたらしい。
このスラングは大嫌いなのだけど青葉被告はいわゆる「無敵の人」だろう。就職氷河期の頃に生まれ、非正規で定職に就けず、そのプレッシャーの中で精神を病み始め、誇大妄想を膨らませて大量殺人に走った。
言っておくが、僕は青葉被告を庇おうとしてるわけではない。亡くなった京アニの社員の人たちは本当に痛ましいと思うし、それぞれに家族や人生があったのに、それが一人の凶行であっという間に断ち切られた。残された家族の無念さというのは推しはかることもできない。この死刑という判決が少しでも無念を晴らすことができることを祈る。
それでも僕が判然としない気持ちを抱えていると書いている理由は、僕もひょっとしたら青葉被告の立場に陥る可能性というのは高かったからだ。僕自身も就職氷河期でキャリア的には失敗しており、統合失調症を患っており周りから配慮されることでなんとか会社で働いている。創作も趣味であるし、小説を書いたりイラストを描いたりするのが好きだ。
彼の人生と僕の人生というのは似たような点も多くて、その中でなぜ自分は統合失調症を患っても社会復帰をして比較的安定した生活を送ることができて、彼は無治療のままで誇大妄想の中で大量殺人を犯したのか? その壁というのはおそらくそれほど厚くなく、僕が彼のような状態に陥っていたこともありうるのである。
僕は青葉被告に同情してたりとか、罪を軽くしてほしいと言ってるのではない。どのような事情があれど、犯した罪についてはちゃんと裁かれねばならず、そして裁判でしっかりと判決が出た。「罪を憎んで人を憎まず」的なことわざもあるけども、事情はなんであれ犯した罪は罪である。日本は法治国家であるし、裁判の結果はひとまず社会が下した判断なのである。
しかし、この手の青葉被告であるとか、秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大のようないわゆる「無敵の人」の犯罪というのは、果たして本当に犯人たちだけの異常性に全ての責任を被せても良いのか? と思うのである。
彼らはある時点で一線を超えてしまうのだけど、それまでにはいくつもの回避できたポイントはあったのではないかと思う。例えば青葉被告でも誰か親身になって話を聞いてやって、医療の方に繋げるような機会があったのならばこんな凶行は犯さなかったかもしれない。それ以前で、社会の方で就職氷河期で犠牲になったような多くの非正規の人たちを生み出さなければこんな事件は起きなかったかもしれない。
今回のブログは完璧に僕のお気持ち文章である。こういう裁判の顛末の判決文とかを読んで、社会の中で起きる事件の中でも被害者の一人一人に人生があるし、その中で起きる犯罪というのがどれだけ罪深いことなのかと実感してしまったのである。起きてる事件の犯罪者の存在というのも社会の歪みにより、抑圧された結果により発生したかもしれず、一人を死刑にしたからといって社会の歪みは解決されてないなと思ったのである。
想像力を無くしてはダメだと思った。物事の一面だけをみて全てを分かったつもりになるのでなく、そこにはいろんな人の思惑であるとか事情があるのだと理解せねばならない。僕はひとまず自分なりの理解というのを言語化するためにブログに書いてみた。最後に、京アニ事件で犠牲になった人たちのご冥福をお祈りします。