超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。


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過去の自分と向き合ってみると随分と変化があった。

過去の自分と向き合ってみると随分と変化があった。


今日は午前中はコメダでニュースレターを書いて、午後からはカウンセリングに行ってきた。今週の週末は予定がいっぱいでありほとんど休む暇がない。せめて睡眠時間はしっかりと確保して疲れを癒しておこう。


しかし、ニュースレターを書くためにここ1週間のブログ記事を読み返してみたけど、最近の僕のブログは完璧にメンヘラブログである。や、なんというか、自分の内面で考えてることばかりを深掘りして文章を書いてみたところで、それを他人が興味を持てるようなアウトプットにしなければ意味がないのである。そういう夜郎自大なことはやめておこうと何度も後悔してるのにまたやってるのである。


僕がブログで書いている文章というのはほとんどフリーライティングであり、その時思いついたことをキーボードをカタカタと叩いて文章化してるだけだ。なので、書いていることがどちらの方向へ進んでいくのか自分でもわからず、一番嫌なパターンは自分の書いた文章で自分が傷ついて病む。


京アニの裁判は注視はしないとならないことではあるが、僕は以前あの事件が起きた時はニュースを見て深く傷ついてしまい1週間ぐらい不調状態に陥った。今回、同じように京アニ事件のニュースの深掘りを始めたのなら、またしても僕は病んでしまいしばらく活動不能状態に陥るはずである。


こうやって思いつきで文章を書く生活は今に始まったことではなく、2016年のこのブログの毎日更新を始めた時からほとんどの記事は全部思いつきを書いてるだけである。昔の記事は黒歴史と呼べるものも多く、自分自身で読んでしまうと枕に顔を埋めてバタバタしたくなるようなものも多いのである。


念のために注意をしておくと、過去の記事では相当過激な表現を使ってる記事もあったりするけど、僕自身の今現在の考えとはズレてしまってる記事も多い。僕自身がまだまだ未熟な状態だったというのもあるけど、どうもこのブログの運用方法としてはフロー型のメディアとして記事を書いている。できれば間違った記事や過激な表現を使ってる記事については修正したいという気持ちもあるけど、僕自身のメンタルの変遷であるとか人がどのように成長していくかというそういう僕自身の存在全体を証明するコンテンツとしてこのブログは残しておきたいので、過去記事については間違ってるけどあえて修正をしない。僕のブログはそういうメディアである。


とはいえ、昔の僕は露悪趣味が相当に酷く、わざわざ人を挑発するような表現を使わないと気が済まない時期があった。そういう状況というのは「貧すれば鈍する」というか、「衣食足りて礼節を知る」というような言葉で表現できるような現象であろう。


今でこそなんとかきちんと生活習慣を整えたりとか、意識的に摂取する情報を厳選したりなどしてるけど、人間という存在は水と同じできちんと器に入れないと低きに流れるものなのかもしれない。


別になんか意識高いことを言おうとしてこういうことを書いてるのではなく、昔の荒れていた状態の時と今を比べると圧倒的に今の方が日々生活していても楽なのである。なんか、こういう罵詈雑言的なことを書いてる時期というのは、自尊心が異常なほど低くて、自分の価値であるとか将来のことにも悲観的な視点しか持ててなかった。


自分自身がそういう時期を経験してわかることなのだけど、ネットで誰かに対してクソリプを放ったりとか罵詈雑言を使ってるようなネットユーザに関しても、そういう人たちの中には生活が満たされておらず自分自身に対して自信を持つことができないからこそ他人を攻撃して貶めないと気が済まないという心理というのがあるかもしれない。


それに対して何かお説教をしようという気はしない。僕は荒れていた昔と比べると今の方が安定していて楽である。そういう攻撃的な表現というのは、自分の罪悪感を刺激したりとか神経を緊張させてしまう作用があるらしく、刺々しい表現は自分を一番傷つける。「人を呪わば穴二つ」という風な諺もあるし、怒りの感情というのは自分の神経を焼いてしまい、最悪は狂気に至る。


こういう内観でわかるような事柄については、何万語も言葉を尽くしても本人がそれを実感できなければ意味がないであろう。言語によるコミュニケーションというのは、「それ」があることを伝えることはできるけど、「それ」自体を示していない。例えとしては、地図というのはその場所を示すけど、その場所自体ではない。


今の自分の心境に至るための道筋というのは、僕はこうやって長年日々感じてることをブログで残してきたけど、僕自身、なんで自分がこんな風に落ち着いた心境になったのか理由がよくわからない。加齢により拗らせていた自意識が落ち着いてきたのかな? とも考えたのだが、ネットを観測していると自分よりも年上でもずっと拗らせてる人もいたりするであるし、必要条件であっても十分条件ではないのだろう。


村上春樹がどこかのエッセイで書いてたことであるけど、日本では若さというのはありがたがる世間の風潮があるけど、ずっと思春期の自意識で生きるというのは生き地獄であろう。歳を取るというのは醜く衰えていくことではなく、得られた経験を蓄積して昇華させる役割もあるのだなと思う。

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