超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。


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僕の瞑想に対する態度はこんな感じである。

僕の瞑想に対する態度はこんな感じである。


沖縄は梅雨に入ってるようであり、連日大雨が降っている。最近、渇水気味でダムの貯水率が減っていたので、雨が降るのは良いのであるが、朝晩の通勤時間に混雑してるのが大変迷惑である。いつもより早く会社に出勤してもギリギリの到着であり、これは何かあったら遅刻してしまうわ。


朝の通勤時間のために削ってるのが瞑想をする時間であり、これも困ったことである。僕がいつも瞑想をしている時間というのが、会社に出勤するために車に乗り込んだ後、20分間だけ瞑想をするという習慣がある。朝に雨が降ってる時には遅刻をしないために、出勤時間を削って通勤してるのであり、瞑想の時間が取れていない。


しょうがないので、今日はオフィスで昼食後にタイマーをセットして会社で瞑想をやった。別にこれはいいかなーとも思うんだけど、周りから見たときにどんな風に見えるのか、小心なオッサンの僕にとってはあんまり好ましくない状況である。別に目をつぶって座ってるだけなので変には見えないと思うのだけど、「何やってんですか?」と尋ねられたときに「瞑想してます」とは答えにくい。


僕がやってるのはマインドフルネス瞑想で、宗教的なやつとかスピリチュアルみたいなものを一切入れずに瞑想をやってるのだけど、周りの人から見たら同じ穴のムジナであろう。どうにも僕もたまにネットをフラフラしてると見かけるような、瞑想に対してよく分からん味付けをしてるようなスピリチュアル系には辟易している。


瞑想をするのになんか神秘主義的なものを加える必要は全くないのである。瞑想というのは心を鎮めるためのトレーニングであり、毎日きちんとやることを習慣化しておくと、余計なことで感情が浮き足立たなくなり暮らしやすくなるのである。「悟り」とかその辺りのもんに関しては、きちんと修行してやりたい人がやれば良いのであり、僕はそういうのは「ノーテンキュー」という感じである。


仏教の開祖のゴータマ・シッダールタにせよ儒教孔子にせよ、「怪力乱神を語らず」という風にして神秘主義的なものを遠ざけていたらしいが、それはよく分かる。瞑想なりでちゃんと自分の内観を深めていき考えるようにすると、自分の認知や感情というのがいかにあやふやで良い加減なものなのかというのが分かるからだ。


「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」という言葉もあるが、人間は不思議なものを見ると、それに対して脳が自分の過去の記憶や作り話で合理的な理由をこじつける性質がある。認知的不協和というのはどうにも人間には耐え難いものであるらしく、理解不能なものというのを自分の身の回りには置きたくないと考えてしまうものらしい。


諸事情あって、僕は妄想というものの質感というのはよく理解してる。それを信じてる時にはその物事がそうであるという確信は揺らがないのであるが、ちょっと薬で脳内物質の働きを変えた程度で世の中の見え方がガラリと変わるのである。人間が自分がそうであると信じてるアイデンティティや世界観というのは不動不変なものに思えるが、実は「私」という存在はすごく脆いものであり、ちょっと意識が変性状態になったり脳の調子が崩れる程度でガラガラと信じてる「私」は崩れ去る。


神様であるとか運命のような存在というのも、世界の存在の成り立ちであるとか人生の理不尽さに対して、人々がどんな風に考えれば良いのかということをみんなで考えて作り出した存在である。それが現実に存在しているというよりは、そういう考え方をした方が楽だからみんなで共通幻想を持っているという感じだ。現実にそれが世界に存在してはいないが、人間の心の働きでそういう存在がいた方がみんなで集まって共通の話題ができて心地良いということで作り出された。


人間の認知の機能というのは、「エピソード記憶」により過去の膨大な記憶を覚えているように、物語の形式で物事を考える特徴がある。人生の過去の記憶は物語として脳に保存されており、その辻褄というのは後からどんどん補正されてその時の状況の都合の良いように改竄されていくのである。人間の好む一貫性というのは、この自分の持っている物語と合っているかどうかということに左右されるところがあり、真に客観的に現実を直視して生きてる人間というのはいないと思う。


実のところ、瞑想という行動は、宗教的なものやスピリチュアル的な神秘主義とは真逆の性質の行動である。頭の中で「こうである」と思い込んでる感情や思考から、体の感覚に意識を向ける練習をすることで、自分の思い込みから脱却しやすくする効果があるからである。なので、おそらく悟っちゃってる人というのも、そういう不思議なものというのも、「あるかもしれないしないかもしれない」とあやふやさすら含めて、そういう自分の認識を客観視できちゃった人なんだと思う。


正しい生き方であるとか、その辺りの仏教的な教えを自分の生活に取り入れるのはいいが、別に宗教に帰依するほど信じる気にはなれんのだよな。僕の基本的な物事に対する姿勢というのはプラグマティズムであり、それがどんなものであれ自分にとって都合の良いものであれば取り入れて使う。しかし、そこに依存するのは変化に対応しにくくて弱点になるからやらないという感じ。僕の瞑想などに対する姿勢としてはこうである。

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