超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。


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「不動心」というものを身に付けたいものだ。

「不動心」というものを身に付けたいものだ。


メンタルが絶賛不調状態であり、どうにもろくなことを書ける自信がない。仕事でプレッシャーを掛けてくるやつがいることで調子を崩してるということもあるのだが、どうにもプライベートでも無茶苦茶なことが起こりがちであり、今週に入ってメンタルの調子が不穏だ。


まぁ、僕はなんか不幸なことにはもう慣れてしまったね。僕は自虐的に人生ハードモードなどと言ったりするけど、実際、幸不幸の標準偏差がどうも不幸な出来事が多い方にずれてしまってるらしく、昔からなんか不幸が多い人生だった。


なので、何か嫌なことがあっても腐らんようにしようと、考え方をできるだけ平穏にするための方法なんかを集めて練習するようになった。僕の人生では石にけっつまずいて転んでしゃがみ込んでると、後ろから悪いやつがやってきて頭を蹴飛ばされるとかそういう目にあいがち。いちいち1つ不幸があった程度で気分を上げ下げしてるとそれだけで生きていく気力がなくなってくる。


僕は宗教は嫌いではあるが、仏教のブッダ生老病死の四苦を発見して、人生というのはデフォで苦しいもんであると言ってるのはなんとなくわかる。ブッダのこういう話を聞いてると、このおっさんやたらネガティブなことを言ってると思うかもしれないけど、僕的な解釈ではだからきちんと人生で腐らんようにまじめに生きようぜと、励ましの意味で言ってることではないかと思うのだ。


どうも、仏教に関しては僕はどうにも取り扱いに困ってるところがある。過去数年ぐらいはとにかく心が折れることばかりが連続して起きており、下手したらまた病気が再発して再起不能に陥るのではないかと思うぐらいストレスを溜め込んでしまった。実際、一時期、被害妄想がひどい状態で休職することを考えてる時期もあった。そこんところを宗教である仏教の考え方で救われてるから痛し痒しだなぁ。困ってしまって「プラグマティズム仏教」なんて造語まで作ってしまった。


僕はマインドフルネス瞑想を練習し始めて、自分の感情を客観的に認識できるようになると苦しさが軽減された。


マインドフルネス瞑想は、アメリカのジョン・カバット・ジン博士が、心理的なトラウマが原因となってる疼痛を軽減するのに仏教の瞑想を使うときちんと回復が統計的に優位差が見られるという発見をして作られた心理療法だ。人間の認知機能において、自分の状態を客観的に把握するようなメタ認知能力を鍛えることで、身体的苦痛や不愉快な気分などを抑えることができる機能がある。


仏教の瞑想も極めてしまうととてつもない効果を発揮してしまう。ブッダが亡くなった理由というのは食中毒であるが、ブッダはその死ぬほどの苦痛も瞑想をすることで乗り越えちゃったのだ。身体的な苦痛も瞑想によりちゃんとその苦痛の原因をメタ認知していると苦痛ではなくなるらしく、人間の体ってすげーなと思う。


それはともかく、どうも僕の人生というのもやたら不幸な事ばかり起きるので、生きるのって苦しいばかりでなんも楽しくないなと感じてた。生きる理由というのを見失って自暴自棄になりかかっていた。


今でもまぁ、生きる理由がなんなのかというのはちゃんと明確に言語化できるほど認識はできてないけども、マインドフルネス瞑想やその他のストレスコーピングで不愉快な感情をごまかしてたら、とりあえずまぁ生きててもいいかと思えるような心境になってきた。生きる理由はまじめに考えて理詰めで解決しようとすると解決不能の大問題になってしまうけど、その問題に対するフォーカスをずらして問題の捉え方を変えることで大した問題でなくなってしまうことがあるのだ。生きる理由だとかそういう抽象的な人生の悩みというのはそういう特徴がある。


仏教の言葉で「不動心」というものがある。以前、恐山にある寺の住職代理をしている南直哉というお坊さんの書籍を読んでいるときに不動心の良い考え方を見つけた。


「不動心」という言葉があります。

これは私に言わせれば、何があっても岩のように動かない心のことでも、まったく波立たない水面のように静かな心のことでもありません。生きているうちは、そんな心を持つのは無理な話です。喜怒哀楽がなければ、死んでいるのと同じですから。

私が考える不動心とは、揺れてもいいがこぼれない心のこと。ヤジロベエのようにゆらゆら動いたとしても、軸は一点に定まってる心のことです。

ヤジロベエはどんなに大きく揺れても、決して台から落ちません。見事なものです。

不測の事態に動揺したり、理不尽な目に遭って怒りがこみ上げたりしても、しなやかに揺れて、またスッと元に戻る。

言い換えればそれは、平均台の上をバランスをとりながら歩くような感覚に近いかもしれません。自分が決めた道から外れなければいいのですから、その間でなら、揺れてもまったくかまわないわけです。

「前向きに生きる」ことに疲れたら読む本 p97~98


僕に必要な考え方というのは南直哉氏が言ってるこのような不動心の考え方であるのだろうなと思っている。他の人の生き方を見てると色々と楽しげな人生のイベントが発生してたりだとか、どうも自然に生きる理由を見つけていくものであるらしいけど、どうも僕は普通に生きていると不幸な事ばっかりで生きる理由というのはなんだろうと悩み込んでしまう。どうも、そういうものは意味の捉え方次第でどうにでもなるもんなんだろうなーという気がする。自分が人生でやりたい軸を決めて、そこからブレなければOKだ。

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