超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。


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新しいものでも良いものは認めて取り入れる。

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新しいものでも良いものは認めて取り入れる。

新しい音楽が探せない。


嫁さんと音楽の話をしてたのですがね、嫁さんはすごく音楽を聴く耳が良い。というか、僕のほうがただダラダラと音楽を聴いているだけなのかもしれないが。


嫁さんはバンプオブチキンとか9mmパラベラムバレットとかの、邦楽ロックをよく聞くのだけど、邦楽ロックの歴史をよく勉強していて、そのバンドごとの系譜を図表に書けるんじゃないかと思うぐらい聴き込んでる。あ、今思いついたけど実際に邦楽ロックの歴史とかまとめ記事を、嫁さんに書かせたら楽しいかもしれないっすね。


僕は、音楽に関しては、なんとなくその時の流行ってる曲を聴いているだけで、こだわりって比較的少ないのですよ。傾向としては、新社会人ぐらいのときはアジカンを聴いて、それから最近はサカナクションとかスキマスイッチあたりの邦楽を聴いている感じです。


また、嫁さんと比べると、同じ音楽を聴く行為であっても、その曲に対する没入感が全然レベルが違うんですよ。嫁さんは絵を描いている時とかは、その描きたいイラストのイメージの曲を繰り返し聴いてたりするんですよ。僕の場合は、作業をしているときは単に無音だと嫌だから音楽を垂れ流しているだけ。音楽に対するこだわりのレベルがぜんぜん違うんですよ。


最近、歳なのかなんなのか分からんけど、新しい流行りの音楽を認められなくなってる自分に気がついてきたのですよね。音楽のサブスクとしてはSpotifyを使ってるんですけど、気がついたらお気に入りの音楽を繰り返し流しているだけで、新しい音楽を発掘しようとしなくなってる。


一応、気をつけて「日本Top50」とかみたいな最近の流行りの音楽を聴いているんですけど、良いと思う音楽が見つからないのですね。


おっそろしいことに、感性が老けてジジイに近づきつつあるのではないか?と怯えてしまう。僕は一応、絵を描いたりだとか小説を書いたりだとかの創作をやる人間である。自分の手癖にこだわって、新しい技術などを取り入れられなくなった創作者というのは、オワコンになってしまって世間から捨てられていくというのはよく分かっている。創作のテクニック云々以前に、新しいものを面白がる感性が枯れてしまうと、創作の源泉も枯れてしまう。


音楽とかアニメを楽しめる感性は、30代以降とか歳を重ねると、意識的にマーケットを確認して流行を取り入れるようにしないと、制作物もなんとなく絵柄が古くなったりだとか世間から周回遅れの話題しかなかったりだとかオワコンな作品しか作れなくなるんです。このあたりは創作者それぞれのバランス感覚だけど、手癖でおんなじ物しか作れなくなると成長が止まる。


そのあたりの対策を今回は考えてみるか。最近、新しいコンテンツを咀嚼する能力がとみに衰えているのを感じるんですよ。毎日、同じことばっかり繰り返しているせいか分からんけど、良いものは良いとちゃんと認めるのは必要かなと思います。

食わず嫌いはしない。良いものは良いと認める。


小見出しで書いたけど、まさしくこの考え方が重要であると思う。


その時のマーケットで何が流行っているかは、ミーハーにならない程度には確認しておく必要は感じるな。今だったら呪術廻戦とかは、一応、アニメの方とかはリアルタイムで全部視聴してみて面白いと思った。ほんとさ、最近、アニメも1クールを消化する体力が衰えていて、前期でなんとか完走できたのは呪術廻戦ぐらいだった。今季は、嫁さんが面白いと言ってるので「ダイナゼノン」と「86」については視聴予定です。


なんか、アニメとかも観る作品で面白いと思うのがおっさん向けになってるのが恐ろしいと思いますね。昔はちょっとかわいい女の子がイチャイチャしているだけのアニメでも良いと思ってたのに、最近はそこに意味を求め始めている。なんか、考えて分かる理屈での理解をしようとしてしまって、感覚で面白いと思うものをぶん投げちゃってるのよ。


理性が強すぎて、頭カチコチ山なのは自分の弱点で、自分の感覚とかもメタ視点で分析して言語化しようとしたりする。で、自分が言語化できないことを否定したりもするんだけど、これは単に自分の理解が追いついてないだけじゃないか?ってのは恐ろしいことだよね。


アニメとか音楽とかのコンテンツに限らないことだけど、実際に体験をしてみてその時に感じるクオリアが素晴らしい行動とかもあったりするかと思うんだよ。頭で理解するのにこだわるのではなく、実際にやってみたり、現場に出向いて実物をみたりして得られる経験を重視するのは必要だろう。

まとめ


しかしまぁ、流行り物ばっかり追っかけてるなんの自分の軸もないやつも人間的につまらんなと思う。そこんところはバランス感覚なんだけど、色んなことを経験してきて、細かなことは時間とともに流れ去っていったけどこれは捨てられないと思う自分のコアを大事にすることが必要なのかな?


少なくとも、自分の中に色んなものを受け入れて、試してみてピッタリとくるものが分からなければ自分のコアも見つからない。そのコアの大きさというのは、今まで体験してきた経験、読んできた物語、聴いてきた音楽だとか、そういう人生の厚みに左右されるのではないかと思う。


自分のコアは、フンコロガシのように苦労しながら転がしていって徐々に大きくするものではないだろうか。別に特別な事をしなくてもコアを大きくすることというのは生活の中に溢れていて、今日出会った人たちの言葉から受ける感慨をよく噛み締めてみることでも気づきがあるかもしれない。


そうやって見つけたコアを自分の創作で生かしてみたいと思うのだけどな。

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