超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。


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原風景を描き出すために生きているところがある。

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原風景を表現するために生きているところがある。

夜に書いている。


ここ最近は夜に風呂に入ったあとにブログを書くようになっている。やることとしては一緒で1時間で2000字ほど殴り書いて、ずばっとネットに公開するだけのルーチンである。なのだが、書いている時の心持ちが朝と夜とではやっぱり感覚が違うな。


ブログを書いていて面白いのは圧倒的に夜の方なんですよ。昼間にあった出来事や、それによって引き起こされた数々の感情が、夜になってマイルドに混じり合ってナチュラルハイな気分になっている。こんな時間の中で文章を書くという行為は、とても気持ちが良い。なんか、夜中に書いたラブレターは出さない方が良いみたいな俗説があるじゃないですか? あれはよく分かる。夜には人のこころを高ぶらせる魔物が居て、書く必要のない文章を書かされてしまう。


高ぶった状態で書かれた文章というのも嫌いじゃない。文章を書くという行為は、自分のこころの中にある吐き出したい衝動を理性で律して、それを言葉に変えていくことだ。読みやすいだとか人の理性に訴えかけるための文章は、理性の検閲を強めて手綱をしっかりと握らないといけない。しかし、夜に書かれる文章というのは、その理性の検閲が弱まってしまうのか、つい、本音がこぼれ出てしまう。そうやって溢れた感情というのはなんとも言えない質感をもっている。


確か、村上春樹のエッセイで言及されてる曲だったのだが、ジム・モリソンの「ソウル・キッチン」という曲があるのだが、夜に書くという行為はその歌詞を思い出させてくれる。

 さあもう閉店の時間だ
 行かなくちゃな
 一晩じゅうここにいたいよ
 車で通り過ぎる連中がじろじろ見るし
 街灯はうつろな光を降りまいているしさ
 それにお前の脳味噌ったら
 ばっちりいかれちゃったみたいだぜ
 あと行けるところといえば
 決まっているじゃないか
 お前のソウル・キッチンで一晩寝かせてくれ
 そのしっぽりとしたストーブで俺を暖めてくれ

   「ソウル・キッチン



夜というのは色んなものを想起させる。その溢れ出すアイディアってのが僕は結構好きでさ。夜の団地の質感というのは自分の原風景ですね。


ぼんやりとした水銀燈の光が外できらめていて、外は冷たい風が吹きすさぶ。電気がついてなくて暗い団地の部屋の中は、揺れる木の陰が部屋の中でうごめいている。住み慣れた家の中には、家具は全部運び出されて何もなくて、その中で一人座り込んで、動く影法師を眺めている。


どうも、自分が創作などで表現しようとする感覚というのはこの水銀燈の光の質感を表現してみたいというのが強くて、未だにこの風景だけが脳裏に強く刻み込まれている。


どうなんだろうな? 自分は随分と固陋な性格で、大学生ぐらいまでの時はなにかと孤立しがちだったのだけど、社会人をしばらくやってコミュニケーションのとり方は後天的に学習したつもりである。でも、本質的に人を全く信用していないというところは残ってる。


自分が大学で心理学や哲学を勉強しようと思っていた理由というのは、こころを知りたかったからである。でも、人間の心理というのは他人との関係性の中でしか現れてくるものでなく、結局、理屈だけを勉強したところでその本質というのは知り得ることが出来なかった。


リアルだけでなく、ネットでもいろんな人と関わって、そうすることで色んな人の考え方や視点などを知ることができて、それで最近になって大学で勉強してきた、心理学や哲学の理論が何を指し示しているのか分かりかけてきた。確かに、学問によって解剖された理論理屈ではあるものの、たしかにあれは人のこころの働きを表している学問だったのだなと思った。


人間のこころの動きの原則みたいなものが分かってきたからといって、それが実際のそれを表してるのではないな。りんごという言葉は赤い果物を想起させてくれるけど、その言葉自体がりんごではない。概念はいくら巧緻に組み上げたとしても、実際のその体験それ自体を表現することはできないのだ。


夜に書いていると、そういう過去のさまざまな思い出が思考に浮かぶのだけど、イメージは捕まえようとすると手をすり抜けていく。僕は高校生ぐらいのときからずっとこの虚ろな風景を描写しようといろんな手段を試してきたのである。言葉で表現する経験を深めてきた今なら、遥かに見た過去の原風景を言葉で写し取ることができるかねぇ。

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