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小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。


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相手を信じてしか分かり合うことはできない。

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相手を信じてしか分かり合うことはできない。


最近、「反応しない練習」(草薙龍瞬著)を再読しているのだけど、人間関係の考え方で参考になる文章があった、引用して軽く私見を述べよう。

人と関わるときに大事なのは、「反応しないこと」だと学びました。しかしこれは、相手に無関心でいるとか、「我慢する」ことではありません。
ときどき、相手に苦痛を強いられているのに「我慢している」人がいます。「相手に迷惑をかけてはいけない」「関係を壊したくない」「職場の雰囲気を悪くしたくない」といった、やさしさや配慮から、じっと耐えているのです。
ただ、「我慢する」というのは、正確には、相手に我慢しているのではなく、「自分の怒りを抑え込んでいる」状態なのです。すでに怒りは沸いてしまってるのですから、そのまま我慢しつづけると、ストレスが溜まって、どんどん苦しくなります。鬱にだってなりかねません。
こういうときこそ、「心の前半分を相手への理解に、後ろ半分は自分の反応を見る」ことに努めて、なんとか反応したがる心に負けないようにしたいものです。
もう一つ大切なのは、「理解し合うこと―理解を共有すること―が大切」という前提に立っておくことです。
自分自身の感情、思い、考えを、相手に理解してもらうこと。これほど大切なことはありません。
「わたしはこう感じている」「こう考えている」ということを、伝えること、相手に理解してもらうこと。それを目的にすえるのです。
もし相手が理解しようとしない、聞こうとしないのなら、それはもはや、関わる意味のない相手なのかもしれません。どのような関係であれ、一方的な苦痛に耐えなければいけない関係は、存在しないはずだからです。
ただ、伝えることで相手が理解してくれる可能性があるなら、「理解してもらう」ことを目的にすべきです。伝えること。説明すること。
「こういうことはやめてほしい」と思うなら、「やめてほしい」と伝えることです。そこまで自分自身にできること。それを相手がどう受け止めるかは、相手の領域です。様子をみることにしましょう。
大切なのは、「理解してもらうこと、理解し合うことが大切なのだ」という理解です。
理解し合うことには時間がかかるものです。急ぐ必要はありません。「いつかわかり合える(わかってくれる)」という楽観・信頼を持って、向き合うことです(信頼するというのは、相手は関係なく、こちらの”選択”です)。
相手への感情は、理解し合えたときにリセットされます。そのとき、関係も変わります。

草薙龍瞬著 反応しない練習 KADOKAWA



この考え方が非常にわかる。「我慢する」ことは怒りを溜め込むことなのだ。適切なやり方で相手に伝えてコミュニケーションで解決するやり方が必要である。


これは心理学的にはアサーティブなコミュニケーションと呼ぶ。どちらか一方が我慢して抑圧的になったり、一方的に相手に押し付けるようなコミュニケーションをする関係というのは拗れてしまい関係が壊れてしまう。お互いに相手のことを思いやり、お互いにWin-Winの関係になるようにコミュニケーションしようと努力することがアサーティブなコミュニケーションだ。


ストレスを限界まで溜め込んで爆発してしまう事もある。ストレスを限界まで溜めてしまうと怒ってしまい破滅的な言動になってしまいがちである。適切なところで自分が言うべきことは言って、自分の中の内圧を減らしていく努力が必要だ。


話したって相手はどうせわからないと諦めて溜め込んでしまうと、ストレスを溜めてしまい攻撃的なコミュニケーションになる。コミュニケーションを取るときも、相手のことだけを気にするのではなく、自分の内心もちゃんと把握して、これは譲れないということはやんわりと相手に伝えておく必要がある。いきなり拒絶をするのではなくて、ちゃんと話せば伝わると信じてコミュニケーションを取るのである。


コミュニケーションというのはすり合わせな所がある。相手の条件と自分の条件の妥協点を探って、うまく納得できるところを探すのだ。かならずしもすべてのコミュニケーションがそうであるという訳ではないが、Win-Winで長く続く関係というのは、相手のことをよく理解してその上で自分のことも理解していることだ。

理解し合うことには時間がかかるものです。急ぐ必要はありません。「いつかわかり合える(わかってくれる)」という楽観・信頼を持って、向き合うことです(信頼するというのは、相手は関係なく、こちらの”選択”です)。


ここが重要だろう。相手のことを信じ、リスペクトして向き合えば、相手も自分の事を信じ、理解し合うことができる。最初から相手を利用してやろうだとかそんな邪な態度で向き合えば、相手に伝わり反発してしまう。


こういう詩がある。ゲシュタルト療法の思想を説いた詩で、「ゲシュタルトの祈り」というものだ。

わたしはわたしの人生を生き、あなたはあなたの人生を生きる。
わたしはあなたの期待にこたえるために生きているのではないし、あなたもわたしの期待にこたえるために生きているのではない。
私は私。あなたはあなた。
もし縁があって、私たちが互いに出会えるならそれは素晴らしいことだ。
しかし出会えないのであれれば、それも仕方のないことだ


人間というのはそれぞれ個別の存在であるし、違う考えを持っている。だけど、互いに相手のことを理解しようと歩み寄り、分かり会えることができるのならば素晴らしい事だ。


他人の本当の真意などどれだけコミュニケーションを取ろうが心の奥底まではわからない。だけど、それでも相手を信じることでしか僕らは分かり合うことができないだろう。

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