超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。


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仏教でいうところの「慢」を減らすにはどうすれば良いのか?

仏教でいうところの「慢」を減らすにはどうすれば良いのか?


この記事に関しては12月6日から7日にかけて下書きを分割して書いてる記事である。ちょっと12月8日は飲み会が発生してしまうので、前もって下書きを書いておき予約投稿しておく。


飲み会は相変わらず嫌いである。気が合わない人たちと酒を飲むぐらいなら一人で美味しい日本酒でも買ってきてちびちび飲んでる方が幾分マシである。飲み会に関しては仕事の延長だと思って参加してる。


こういうことを書くと億劫な飲み会がますます嫌になってくるのである。いい加減、40代まで生きてきて気がついたこともいくつかあるのだが、嫌なことに対して嫌だ嫌だと喚きながらムッとした表情で参加したところで何も面白くないということである。何か嫌なことがあったとしても、その出来事から何か学べるのかとか反面教師にしたい人のどこを改善したらより良くなるのかとクリティカルシンキングなことを考える練習として捉えれば良いのだ。


そもそも、僕はなんか知らんけど常に偉そうな態度を取っているが、自分はすごいともえらいとも思わん。ブログを書くときぐらいは自然体でありたいためにこんな風な文体になってしまってるが、普通の人間関係では困ってる人がいるのなら助けようとするし、話題においては気詰まりにならないように話題に気を配るぐらいの空気は読める。


どうも、僕が対人コミュニケーションで持ってる問題であるなーというのはピンポイントで特定できていて、仏教で言うところの「慢」と言う概念の問題がどうも強いらしくて、調子が良ければ見栄を張り、困ったときはすぐに落ち込んで自己卑下に陥ると言う困ったちゃんなのである。


「慢」と言うのは次のような概念だ。

仏教で説く煩悩(ぼんのう)の一つ。サンスクリット語マーナmānaの訳。自分を高くみて他を軽視する、自己中心的な思い上がりの心。こうした心理を分析して三慢、七慢、九慢などが説かれる。このなかに「我慢(がまん)」も含まれるが、これは今日の日本語の、自己を抑制する意味の「我慢」とはむしろ逆の心理状態であり、強い自我意識からおこる慢心をいう。

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
慢(まん)とは? 意味や使い方 - コトバンク


僕がこの「慢」と言う概念を知ったのは草薙龍瞬氏の書籍の中で書かれていたからなのだけど、傲慢と言う言葉から想像するような上記であげた辞書的な意味でのわがままさだけが「慢」ではなくて、何か困ったことがあった時に「自分は全然ダメだ」とか「自分よりも相手の方が優れている」と言う決めつけも「慢」の概念の中に含まれるのである。


仏教というのはものすごく単純化してその教えを説明するならば、「自分の中にある思い込みや妄想を全部取り払った上で、冷静な判断で物事にあたればうまくいく」という考え方であるので、人よりも自分の方が上だという思い込みも論外であるが人と比べて自分が劣っているという思い込みもまたNGなのである。


ここんところの自分の中の「慢」を取り除くというのは、よくよく考えるとすごく難しいことなのである。人がブログやSNSでなんで自分の生活を良く知りもしない人たちに公開しているのかというと、そのことでいいねなどを押してもらい自分の自尊心を満足させるための行いである。品のない行いではあるが、自分よりもレベル的に低い人たちの行いをみて相対的に自分の方が上だということで自尊心を満たしたり、うまくいってる芸能人の失敗を見て「しめしめ」と思うことは、現代人であればよくあることだろう。


しかしまー、こういう「慢」を持っていると、「なんでこんなに頑張ってる自分がこんな目にあうのか」とか自己憐憫を膨らませてますます不幸な気分が膨らんでいくだけなのである。こういう感情は全部仏教的な意味での「妄想」なので、相手の本当の姿を見ずに、自分の頭の中だけで膨らませた自分の影に振り回されてエネルギーを使ってしまうのである。


僕はこの「慢」の対策には草薙龍瞬氏の「これも修行のうち」で書かれていた次の考え方が役に立つと思う。

・プチ修行40 「小さく、小さく」で心を守る

仏教は、実にユニークな対策を教えてくれます。それは「小さく、小さく」という心がけです。小さくとは、決して慢をふくらませないこと。「自分が正しい」「自分がエライ」(優れている)という思いを持たないことです。

仏教では”つつしみ”と表現します。原始仏典に、こんな言葉があります。

「亀が甲羅の中に手足を収めているように、心を耕す者は、身を小さく保っていなさい。身をつつしむ人は、自らを守る人である。外に漏れない(反応しない)心にこそ智慧は宿る -テーラガーター/サンユッタ・ニカーヤ他

つまり、"つつしみ”こそが、心の成長に大切だという考え方です。

つつしみは、一般に「謙虚」や「卑屈」に近いものと受け止められがちですが、意味はまったく違います。

「謙虚」や「卑屈」は、「自分はまだまだ」「自分の方が下」という、”判断”を含んでいます。

しかし仏教では「ただ理解する」だけです。自分をいちいち判断しません。上とも下とも判断しなくていい。自分自身にできること、今自分の心にある思いは、ちゃんと理解している。よく理解しているから、偉ぶる必要はないし、相手と張り合ったり、大きく見せようとしたり、自分の正しさ・優秀さをアピールする必要もない。そういう発想です。

自分のことをよく見つめてる。理解している。それゆえに「慢」を持たない-それが仏教的「つつしみ」の意味です。



対人関係において、相手の方が自分の上とも下とも考えずにそのものを受け入れる考え方をすればいいよということであるが、これが実に難しいのである。とくに、現代社会では競争を勝ち抜くことで豊かになれるという成果主義で子供の頃から教育されてるので、それを全部入れ替えるというのも難しいだろう。


ともかく、「慢」という概念をキーワードとして色々と調べてみたりしたらもうちょっと良い解決策も見つかるかもしれない。それとももっとマインドフルネス瞑想などでメタ認知を深めれば良いのか。人生を生きやすくする手段というのはまだまだたくさんある。努力のしがいのあることであるな。

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