超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。


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『走ることについて語るときに僕の語ること』村上春樹。


最近ではノーベル文学賞落選が秋の風物詩になってしまった村上春樹ですが、物書き志願者にとっては頭の痛い存在です。村上春樹が好きだと言えばちょっとでも本を読んでいる人には馬鹿にされる、かと言って馬鹿にするとお前は村上以上の比喩表現が書けるのかよ、となるのです。


例えば、目の前に色んな物を拗らせたワナビが居るとして好きな小説の話になるとします。貴方が「私小説が好きなんですよ。村上春樹をいっぱい読んでるハルキニストなんですよ!」などと云います、すると彼は「へぇ・・・村上春樹は高校生の時に三部作を読んだよ」などとお茶を濁すでしょう。そこで村上作品で一番どれが好きなのかという話になり、「ノルウェイの森!」などと答えると、彼は悲しく微笑んで貴女の元から去り、貴方に小説の話を振ることは一生無いでしょう。


こういった相手には埴谷雄高が好きだとか、池澤夏樹は全作品読んだぐらいの見栄を張ってみましょう。ショーペンハウエルの「読書について」を引用してみるのもいいかもしれません。ガルシア=マルケス大江健三郎の類似性について熱く語ってみるのもいいでしょう。逆に、山田悠介を読んで号泣したとか、ボカロ小説で夜も眠れないと言ってみても興味を引けるかもしれません。悪い意味で、ですが。


さて、何が書きたかったんだっけ? そうそう文章読本ですね。村上春樹が書いた「走ることについて語るときに僕の語ること」という長いタイトルのエッセイがあります。これは本棚のすぐ手の届く場所において、時折読み返しています。
専業作家としての村上春樹が長く書き続けるために、どんな心がけをしているのかが分かる本です。ちょっとだけ引用してみよう。

優れたミステリー作家であるレイモンド・チャンドラーは、「たとえ何も書くことがなかったとしても、私は一日に何時間かは必ず机の前に座って、一人で意識を集中することにしている」というようなことをある私信の中で述べていたが、彼がどういうつもりでそんなことをしたのか、僕にはよく理解できる。チャンドラー氏はそうすることによって、職業作家にとっての必要な筋力を懸命に調教し、静かに士気を高めていたのである。そのような日々の訓練が彼にとっては不可欠なことだったのだ。


長編小説を書くという作業は、根本的には肉体労働であると僕は認識している。文章を書くこと自体はたぶん頭脳労働だ。しかし一冊のまとまった本を書きあげることは、むしろ肉体労働に近い。もちろん本を書くために、何か重いものを持ち上げたり、早く走ったり、高く飛んだりする必要はない。だから世間の多くの人々は見かけだけを見て、作家の仕事を静かな知的書斎労働だと見なしているようだ。コーヒーカップを持ち上げる程度の力があれば、小説なんて書けてしまうんだろうと。しかし実際にやってみれば、小説を書くというのがそんな穏やかな仕事でないことが、すぐにおわかりいただけるはずだ。机の前に座って、神経をレーザービームのように一点に集中し、無の地平から想像力を立ち上げ、物語を生み出し、正しい言葉をひとつひとつ選び取り、すべての流れをあるべき位置に保ち続ける――そのような作業は一般的に考えられているよりも遥かに大量のエネルギーを、長期にわたって必要とする。身体こそ実際に動かしはしないものの、まさに骨身を削るような労働が、体中でダイナミックに展開されているのだ。もちろんものを考えるのは頭(マインド)だ。しかし小説家は「物語」というアウトプットを身にまとって全身で思考するし、その作業は作家に対して、肉体能力を満遍なく行使することを――多くの場合酷使することを――求めてくる。


走ることについて語るときに僕の語ること p118-119


村上春樹はジョガーであることも有名です。彼は小説を書くために肉体を鍛える事を選びました。上記であげたような精神性の労働に対するスタミナを得るため、アスファルトの上を走りながら考えているのです。こういった村上春樹のフィジカルにまで精神性をもとめる態度が好きで、僕はこの本を何度も読み返しています。


ちなみに村上作品では「ねじまき鳥クロニクル」が好きです。「ノルウェイの森」はクソです。


走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)


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