仏教は怖いけどいいなーと思う。
なんとなく最近、メンタルの調子が良くない。いや、このブログの熱心な読者諸氏ならばお前、いつも調子悪い状況ばかりやんけとツッコミを入れてくれるかもしれない。すまないが、またしてもまたなのだ。メンタル持ちというのは、特に理由がないけど体のどこかが調子が悪いという状況が四六時中ひっきりなしに続くのである。せめて、食事・睡眠はしっかりとリズムを維持してぶっつぶれないように気をつけないとならない。
しかし、ま、僕もメンヘラとしてはそれなりに長い歴史を誇っているので、調子の悪い時のやり過ごし方というのも多少は洗練されてきてるかと思う。一時的な自分の気分だけにフォーカスしてしまうと、ちょっと気分が悪くなっただけで世界の終わりみたいな発想が浮かんでしまうけど、大抵の場合は死んだふりをしながらじっくり長く寝たりしながら時間を経過させるとやり過ごせてしまうもんである。気分が悪い時は何かしら原因を求めて、その問題を解決できないと死にたいみたいな気分になってくるけど、広い視野に立ってその物事をじっくりと眺め返すとどうでもいいことだったりすることが大抵である。人生の問題というのは、生きることと死ぬこと以外はどうでも良いことである。極論だけど。
僕は最近は飯を食いながらYoutubeを鑑賞しているのだけど、大愚和尚という本職のお坊さんのYoutubeが面白いと思った。
どうも、仏教と僕の相性というのは相当に良いらしく、大愚和尚の動画を眺めているとどれも「なるほどー」と納得することばかりなのである。僕は仏教に関しては宗教ということで忌避感があるのだけど、書籍などを通じて知り得る仏教の考え方はどれも「なるほどー」と納得しきりである。
仏教の考え方というのは、色々と視点を工夫したりとか心の中の動きを観察したりしながら、無用な感情の揺れを鎮めるところに主眼を置いているところがある。どうも、僕自身の今までの人生の中で出くわしてきた困難などというのは、そのときに仏教の考え方を知っていたらここまで致命的にならなかったかもしれないなーと多少後悔することもあったりするのである。
しかしまぁ、僕はどうにも宗教には心を許せないのである。今まで無駄に修羅場を潜りまくってるので、病んでるときにインチキな民間療法に飼い殺しになりかかった経験などもあったりする。悪徳商法でマルチのターゲットにもされかかったことがあるので、良いことばっかり言ってる人というのは信用ならないという手負の野生動物のような警戒感があるのである。しかも、僕の場合、根っこの方の性格が凝り性なので、もし仏教のことを本当に信用してしまったら禅寺に坐禅を組みになど通っちゃったりする恐れがある。まかり間違って本当に出家などしてしまうと、とうとう世を儚んで俗世を捨てたかと周りの人に生暖かい視線を送られそうなので、単純に嫌である。大概、僕も相当、業の深い性格と人生を送ってるので、そっちの方の道に魅力を感じてしまうのもまずい。
僕は、そういう仏教への反発心を隠しきれずもリスペクトしてしまってる面倒臭い堂々巡りの思考の末に「プラグマティズム仏教」などという新造語を作り出してしまったりしてる。
なんか、大愚和尚の説法とか聞いてて仏教がどんなもんかというのを知っていくと、確かに自分の考え方の足りない点とかにピタッと合う感じで補うような考え方を教えてくれて、「仏教やべーな」という意識を改めて感じるのである。
確かに、仏教の考え方を知って真剣に仏教を修めてしまうと人生の苦しみから解き放たれる可能性があるかもしれないけど、そこんところに自分というものがあるのかという恐れがあるのである。今までの人生の中で、ぶっ壊されつつもなんとかつぎはぎしつつ生きている自分という存在というのは、悩みとか苦しみも含めて全部自分みたいな感覚があるのである。そこんところの世俗から完璧に解き放たれちゃった自分というのは、なんかLSDで理性失ってぶっ飛んじゃったのと変わんねーんじゃねーかなみたいな感じ。
どうにも僕は「プラグマティズム仏教」のように、仏教の良いエッセンスだけを取得しつつ都合よく凡人として憂世で七転八倒しながら生きていくのがお似合いなような気がするんだよね。聖なるものと俗なるものなどを考えてしまうのだけど、どうにも僕は俗っけが抜けない。でも、なんか仏教いいなーと思うのである。