超メモ帳(Web式)@復活

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『反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」』(草薙龍瞬著)を読んだ。

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『反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」』(草薙龍瞬著)を読んだ。


今日は会社がお休みで、猫に噛まれた手を病院で診せてきてその後、母親の見舞いに行ってきた。午後からは特にやることが無かったので本でも読んでた。


kindle unlimitedで評判がいい本をたまに入手して読む。今回読んだ『反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」』(草薙龍瞬著)は当たりの部類の本だった。


全体的な感想としては、「プラグマティズムで再編した仏教入門書」といった感じ。現代まで伝わっている仏教というのは長老主義とかなんかそんな思想で、目上の人や年上を敬う組織としてのルールに縛られているのだが、この本で解説されている仏教の考え方は、とにかく人生はデフォルトで苦しいもんなのでブッタの考え方を使って楽に生きようぜーみたいな思想。

心を扱う多くの世界では、「確かめようのない」内容を真理として説きます。宗教も、オカルトも、占いも、「仏教」とひとくくりに呼ばれている思想の中にも、それはあります。
しかしブッダの思考法──おそらくかつて実在したブッダ自身の立場──は、「確かめようのないこと」は、最初から取り上げません。
その理由を、ブッダ自身が明確に述べています。


世界は永遠か、終焉があるか。有限か、無限か。霊魂は存在するか、しないか。死後の世界があるか、ないか。私はこれらのことを、確かなものとして説かない。
なぜならそれは、心の清浄・安らぎという目的にかなわず、欲望ゆえの苦痛を越える修行として、役に立たないからである。
私は、これらの目的にかない、役に立つことを、確かなものとして説く。
それは、生きることは苦しみを伴う。苦しみには原因がある。苦しみは消すことができる。そのための道(方法)があるということ──四聖諦──である。
──弟子マルンキャプッタへの教え  マッジマ・ニカーヤ


こういう合理主義は僕的にはとても受け入れやすい。自分自身、それほど理系の人という訳じゃないけど、何かを厳密に語る時にエビデンスのない事は受け入れられない程度には合理主義である。この本では「怪力乱神を語らず」というか、実際に現代人がコモンセンスで理解できる範囲の事柄を使って、ブッダの思想を使って楽に生きるための仏教のエッセンスを「使う」ための本である。僕は現代思想ではプラグマティズムが好きだし、この本で語られている事は確からしい事である。


例えば、タイトルでも語られている「反応しない練習」ということだが、端的に言うとこういう事である。

反応せずに、まず理解する──これが、悩みを解決する秘訣です。特に「心の状態を見る」という習慣を持つことで、日頃のストレスや怒り、落ち込みや心配などの「ムダな反応」をおさえることが可能になります。


僕は最近、マインドフルネス瞑想を習慣に取り入れているんだけど、マインドフルネスをやってる人ならこれはよく分かるだろう。自分の心の中で起きてる不愉快な気持ちを、言葉を付けてラベリングしたりするんだけど、この様に瞑想では嫌な気持ちに囚われて思考リソースを無駄にする前に心の状態を観察して気がつく事ができるようになるのだ。反応を抑えることができたなら、常に穏やかな気持で物事をクリアに捉えることができる。


スマホSNS中毒に陥っている人には次のような忠告も書かれている。

今は「歩きスマホ」が問題になっていますが、正直あれは「テキトーに反応している」だけなので、「つい反応」「つい妄想」という心のクセを強化してしまうはずです。「テキトーな反応」だけだと、ぼんやり感や虚しさが増えていくのではないでしょうか。  もしあなたが、これ以上悩みを増やしたくない、充実感を大事にしたいと願うなら、テキトーな反応、妄想を減らすことです。そのために「カラダの感覚を意識する」ことを習慣にしてください。

驚かれるかもしれませんが、心理学の一説には、心は一日に「七万個」もの想念を思い浮かべるのだそうです。「約一・二秒で一個の思い」です。心というのは、それくらい目まぐるしく回転しつづけているのです。これは「心は無常である」ことの一つの例です。  

今の時代は、ネットやマスメディアを通じて、煩悩を刺激するさまざまな映像や情報が、いくらでも飛び込んできます。そうして心にインプットされた〝反応の記憶〟は、自分でも予期しない形で脳裏によみがえってきます。  
ただ、それらは全部「妄想」です。真に受けるに値しないものだと、最初に知っておきましょう。「妄想は妄想にすぎない。何が思い浮かんでも反応しない」という覚悟が、大事なのです。


これらが自分が身につまされる事だなーと思ったことですね。ネットをふらふらと彷徨っていると刺激的な情報が溢れているのだけど、これらを無節操に取り入れていると反応中毒になって、全く関係ない赤の他人の為に心をかき乱されてしまう。丁寧に生きようと思うのならば、ネットから得る情報も厳選して有益なものだけ選ぶべきだろう。


世間に振り回されないように生きるには、ブッダは次のように語っている。

それではチュンダよ、このように考えて、自らを戒めよう。
荒々しい言葉を語る人もいるかもしれないが、わたしは荒々しい言葉を語らないように努力しよう。
自分の考えに囚われる人もいるかもしれないが、わたしは自分の考えに囚われないように心がけよう。
間違った理解や思考を手放せない人もいるかもしれないが、わたしは正しい理解と思考が身につくように頑張ろう。
見栄やプライドにこだわる人もいるかもしれないが、わたしは見栄やプライドから自由でいられるように精進しよう。
自分をよく見せたがる人もいるかもしれないが、わたしはありのままの自分で生きていくように努めよう。
──チュンダへの諭し  スッレカ経  マッジマ・ニカーヤ  


ブッダの考え方のポイントは、「世間にはこういう人もいるかもしれないが、わたしはこうしよう」と、他人と自分との間にきっちりと線を引いていることです。


確かな自分を確立することで、他人や社会から流されないようにする。それでいて調和を大事にして人の幸せを喜んであげる。そういう事がブッダの思想らしいです。

〝正しい生き方〟とは、たとえば、  

①反応せずに、正しく理解すること──仏教では、これを〝正見〟と表現します。
三毒などの悪い反応を浄化すること(心をきれいに保つこと)──伝統的には、〝清浄行〟と呼ばれます。
③人々・生命の幸せを願うこと──慈・悲・喜・捨の心で向き合うことです。

こうした生き方は、宗教としての「仏教」を超えています。この世界に生きるすべての人間にとって、かけがえのない心がけ、普遍的な正しい生き方なのです。信じる必要はない。すがりつくことでもない。「つい反応してしまう自分」の一歩手前に置くべき「心の土台」、よりどころなのです。
人は心に〝よりどころ〟を持つことで、はじめて、さまよえる人生を抜け出せます。


河の中にあって足場を得なければ、人は流されてしまう。  足場を得てそこに立てば、もはや流されることがない。──長者スダッタの園にて  サンユッタ・ニカーヤ


この本の語る、ブッダの思想とは何か?というまとめは以下のような文章である。

ブッダが教えるのは、現実を「変える」ことではありません。「闘う」ことでもありません。現実は続く。人生は続いていく。そうした日々の中にあって、せめて自分の中に苦しみを増やさない、「納得できる」生き方をしよう──そう考えるのです。
私たちに必要なのは、自分が「最高の納得」にたどり着くための、正しい生き方、考え方、心の使い方です。
それは、現実の世界に、この人生に、「どう向き合えばいいか?」という内面的なテーマです。その主体的な問いに立ったとき、現実を超えてゆく生き方が可能になるのです。


私は正しく思考しなかったから、自らを飾り、いつも動揺して、ふらふらとさまよい、欲望に翻弄されていた。
ブッダの巧みな導きにより、私は正しく実践し、求めてさまよう人生をようやく抜け出した。
──仏弟子ナンダの告白  テーラガーター


総論的に感想を書いてみよう。


この本はブッダの思想を使うための本でした。最近、マインドフルネスを始めているのでこれは興味深かったですね。まぁこの本でも書かれていることですけど、人間ってのは何もしなければデフォルトの状態で不快な感情に囚われてしまうものなんですね。ブッダが始めた原始仏教というのはこういう生きる苦しみから如何に「解脱」するかのノウハウを集めた様な実際的な思想だったんです。なんか現代の仏教ではブッダ神秘主義みたいに扱われていますけど、ブッダが言ってた事というのは、合理的に考えるようにしたら人生に納得しながら楽に生きることができるよ、みたいな事だったんですね。


この本、良かったです。最近、仏教にも興味を持ち始めたので入門的に色々と知ることができました。


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