仏教をプラグマティズムに使うにはどうしたら良いか調べてる。
最近、色々と仏教やらマインドフルネス瞑想関係の書籍を読み漁ってるけどまた当たりの書籍を見つけた。小池龍之介氏の「考えない練習」だ。
僕的にはこの本はりとさん(id:rito-jh)にオススメしたい。りとさんもこんなエントリー書いてたじゃないっすか?
僕もちょっと方向性は違うけどまったくりとさんとおんなじような生活をしていて、草薙龍瞬氏の本の中で書いてる「サティとラベリング」に注意するという風な生活のやり方をやるように気をつけている。何か家事とかやってる時でも、意識を雑念に囚われないようにするために作業の一つ一つを丁寧に行って、思考の純度をクリアに保とうとしているのである。
上述した小池龍之介氏も仏教の僧侶なんだけど、この人の「考えない練習」も、僕が分類するところの「プラグマティズム仏教」による実用書だ。草薙氏の「これも修行のうち」が気にいるのなら、多分、この「考えない練習」も相当に純度の高い実用的なマインドフルに感情を保つための実践法が書かれているので、この本も気にいると思いますよ?
しっかしまぁ、最近は個人研究でマインドフルネス瞑想や仏教を色々と調べているけど、なんとか道筋は分かってきた気がする。今日もこんな記事を見つけて読んでいた。
仏教に関して言うと、僕は宗教っぽい仏教思想に関しては拒否反応がでて全く駄目。マインドフルネス瞑想の源流とかを調べたくて、ヴィパッサナー瞑想だとか上座部仏教の書籍まで読んでみたけど、あれらは極めるためには出家する事を求められるところがある。なんか、それらの本を書いている人の経歴とかを調べてみると、みんな博士号持ってたりとか大学院に行ってるような高学歴な人たちなんだけど、実存的な悩みの末に座禅にはまり込んで社会捨てて出家した人たちばかり。
いや、、まぁ、瞑想や座禅を極めようだとか思うとどうしてもそっち方向に走っちゃうのは分かるんだけど、僕はあくまで普通に人生送っていて楽な考え方とか知りたくてマインドフルネスとか仏教とかを研究しているので、出家するところまで行っちゃうと、とうとうハードモードの人生に耐えかねて憂世を捨てちゃったかーみたいな世間の声が聞こえてきそうなので駄目。
いやいや、禅宗関係の書籍とか読んでると出家する気持ちはめっちゃ分かる。なんか、座禅を極めていくと、ある時座禅するだけでものすごく気持ちよくなって、それからそういう気持ちよさとかも突き抜けていって人生の悩みから解き放たれた悟りの境地まで行っちゃうらしいのね。もう座禅はあるところまで突き抜けちゃうと、禅定っていって座禅するだけで楽しさとか嬉しさとかが心の静けさの中でやってくるような境地まで至っちゃうらしいのよ。こういう境地のことを書いている文章を読むと、僕も禅寺行って修行するかー!とか突っ走りそうになるので怖い。
なんかさ、只管打坐でそういう究極的に心の静けさを極めてしまう生活というのはすっごい憧れる。なんか、博士号持ってたりとかそういう高学歴の頭の良い人たちがそういう道にはまり込んじゃうのは、仏教をちょっと勉強しているとすごい分かる。仏教の中でもブッダが作ったばかりの原始仏教とかは、ものすごく論理的に心を鎮めて悩みから解き放たれる実践法が解説されてるのよ。しかも、騙されたと思ってしばらくマインドフルネス瞑想とかやってみると分かるけど、たしかに瞑想で心を鎮める練習をしていると人生の悩みが減って楽になっていくのよ。こりゃ、頭が良い人たちは論理的に精神世界を調べ尽くそうとして出家しちゃうはずだわ。
僕は、仏教に関しては宗教としてはハマるつもりないです。僕の信仰しているのはあくまでも沖縄の琉球神道の先祖崇拝の方だし、よその神様は拝んだとしても信じちゃならんのですよね。仏教が理屈として面白いというのは分かるけど、沖縄の墓に入るつもりなら他の宗教にハマるのはならんのです。キリスト教とか仏教にはまって無縁墓入ったりとかウチナーンチュでも結構多いんですよ。
なんでまぁ、「プラグマティズム仏教」だとか称して、実践的に生活の中で禅の考え方を取り入れたような思想を色々と調べてるんですよ。どうも、認知行動療法の分野でマインドフルネス瞑想を取り入れた「アクセプタンス&コミットメントセラピー(ACT)」とか、そういう宗教的な色合いを排除して仏教の考え方を取り入れた理論の方を色々と研究している。あくまでも、プラグマティズムとして思想を使う方向で僕は物事は考える。特に信仰に関する領域については、あくまでも実用的に、人生をよりよく、物事を楽にする方向で思想をどう使うのか? 僕はそんな考え方をしますね。