超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。


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「自分探し」とか「何者問題」についての文章。

「自分探し」とか「何者問題」についての文章。


今日は休みであるのでカウンセリングに行ってきて、そして温泉施設でサウナに入ってきた。ここんところずっと張り詰めっぱなしだしね。そろそろ息抜きをしないと神経が伸びきってダルダルになるかプチンと切れちゃう。


しかし、一体何を書くか。仕事辞める系の話題については、ひとまず僕は早急に転職先を見つけることにしたよ。カウンセリングの先生によると転職先も見つけずに現職を辞めるのはオススメしないとのこと。なんだかんだで僕は仕事のストレスとうまく付き合う方法は身につけているであるし、今の職場でストレスをやり過ごしつつ賢く立ち回った方がいいとのことだ。


まぁ、先生の言ってることはなんとなくわかるよ。会社の人間関係がどうこうということだけでなく、正直なところ、僕は自分がどんな風になるかというのもそこまで興味がない。苦しかったりキツかったりするのは嫌だからなんとかそれは回避するために頑張るけども、今更将来どんな風になりたいかとかいう希望はなくて、自分の生活を安定させられるような方向性が見つかれば良いなと思ってるだけである。


なんか、世間一般の俗説では人生に対して夢や希望を持つことが良いことであると言われているけど、それは本当にそうだろうか? 成功者風な人たちがメディアで大きなビジョンを語っていたりして、それを世の中では素晴らしいことであると言ってるけど、別に市井で生きてる人たちはそこまで大きな夢や希望みたいなものは持ってないと思う。


たとえば公園などでそこらへんに座ってるおじいちゃんとか道端を歩いてるおばさんを捕まえて、夢やビジョンを尋ねたところでスラスラと理想的な人生の目標を言えると思う? みんななんとなくでその日その日の暮らしを過ごしており、それでなんとなく生活は成り立っており人生を全うする人がほとんどなのだ。


僕も若い頃は成功者にならないといけないみたいなあっさい自己啓発本に洗脳されていて、毎日自己啓発本を一冊読んで周りをマウントするような痛い意識高い系であったけど、ブラック企業で徹底的に高い鼻をへし折られてその手の本で語られてる話というのはまったく再現性がないと気がつかされたよね。


夢や希望を持って高い山に挑戦し続ける姿は美しいであるけど、高すぎる目標で生きるのが苦しくなるぐらいであればそんなものは捨てた方がいい。上ばっかりをみてる人は足元がお留守であるし、上手い転び方ができなかった人は後々まで引きずるよね。


や、この辺り僕はかなりの極言をしてることは理解してるけど、人生を生きていくにあたって30代あたりで「自分は何者でもない」ということを自覚できなかった人というのは今後の人生を生きるのが苦しくなるし、下手をすると周りの人に迷惑を掛けるようになる。


自分は何者であるかという言説というのは、僕はそんなに好きくない。この手の「自分探し」というのが純粋に自分の中の実存を探すための活動で完結するというのはほとんどなく、大抵の場合は特別な自分を周りに認めてもらいたくてきちんと完結もしてないような中途半端な異臭がする自意識を周りに押し付けて辟易させることが大半だと思うのだ。


僕がたまにブログでも言ってる「型にはまらない自意識は見るに堪えない」というのはこのようなケースを指している。無責任にも自分でもちゃんと把握してないような自意識を、他人に押し付けて自分の期待するようなレスポンスを期待するという行為自体が恥ずかしいことであると申してるのである。


自分の自意識を誰かに託すという行為は、生死を賭けるぐらいに真剣に行うべきであると思う。僕はこういう自分の存在を認めてもらおうというコミュニケーションが、真剣であればこちらも真剣に向き合おうとする。そういう時はまだその人の個が未完成であったとしても、僕は敬意を払う。


ただ、そういうコミュニケーションがなあなあで、本人は手を抜いているのに誰かから認めてもらいたいという甘えが見えた時は醜悪だよね。大抵そういう人は自分が気持ちよくなるだけのために、自慰行為で他人を利用しようとしてる。この手のコミュニケーションに巻き込まれると大層不愉快である。


なんかさ、僕が自分語りばっかりしてるブログの上でこういうことを書くのはものすごい諸刃の剣なんよ。じゃあお前の自意識はどうなんだと反論された時に、自分の真剣さというのをうまく伝える方法というのが思いつかない。結局、こういう真剣さというのは1対1の対話でないとうまく伝わらないところがあるし、ブログ記事みたいに不特定多数に対してメッセージを送るやり方ではすべての人を納得させる方法はない。


だから、ブログでこういう話を書くというのは読者の善意に頼りきりにする行為であり、それが僕が今まで批判してきた行為そのままであるという大変恥ずかしいことをやってるんだよね。や、ひょっとすると世の中には読んだ人すべてに対して納得させるようなすごい自己表現というのがあるかもしれないけど、そういうのはものすごい書き手が慎重に表現を選んで実現できることであるかと思うんだよ。


一体なんでこんな話になってるのか分からない。フリーライティングというのは書いてみるまで何が出るのか分からないので、自分でもコントロール不能なんだよね。ちょっとは前もって何を書くかは考えるべきだなーととみに思う。

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