人生とは生きるには長すぎるけど何事か成すには短すぎる。
ちょっと今から恐ろしい話をするけど、2023年はこれからあと実質3か月程度しかないよ。ヤバない?
山月記の言葉を引用するけど「人生とは生きるには長すぎるけど何事か成すには短すぎる」。この言葉を噛み締めて骨身にまで染み込ませておく必要があるよな。何も考えずにぼんやりと生きていると、あっという間にタイムオーバーがきて不満を抱えたままに死んでいくこともあるかもしれない。
一体、自分がこの人生で何を成したいのかというのは、今の歳になってもさっぱりと分からない。ひとまず人生の目標においていることとしては「晴耕雨読で仕事をしながら創作活動で色々と作品を作っていくこと」みたいな感じである。その割には作品制作に対するモチベーションの部分でモヤモヤしてたりとか、随分と時間の使い方が上手くない気がする。
まーなんと言いますか、この目標には色々なニュアンスが加えられていて、日本国憲法のように解釈で色々と運用できるような曖昧さが含まれてるんだよ。僕自身は今んところ仕事の方で完璧に何もかもほっぽり出して、プライベートのためだけに生きようみたいな方向性では生きてないし、仕事でもスキルを上達させてそれなりにきちんと社会貢献できるところまで頑張ってやりたいなという気持ちもある。その他にも自分のできる範囲で世のため人のために色々と社会活動をして役に立てる人物として行動したいなという考えもある。
ちょっと前にピアヘルパーとかピアカウンセリングのような活動にも参加してみたいという事を書いた。こちらの記事だ。
僕は統合失調症を患っていて障がい者雇用で働いているのだけど、そういう自分というのはアイデンティティがなんなのか? と悩むようなことが最近多い。病気を持ってはいるが、そこまで障がいは重度ではなく自立して仕事をしたりしながら生活をすることもできている。だけど、完璧に配慮もなしに働くには難しい感じ。なにかアクシデントが発生して心が揺らいでしまうと数日にわたって感情が炎症を起こしてるようになり行動不能に陥る。
そういう病気を持っている自分の社会での立ち位置というのが分からなくなり、図書館で色々と障がい者雇用関連の書籍を借りて色々と読んでみて考えたりなどしてるのである。今回はこんな本を借りて読んでいる。
この本の中で次のような文言があったのだけど、「確かにそうだな」と思った。
著者らが立ち上げたボランティア団体『ホホホ・ザ・わいわい』がはじめたピアサポート『伴走者の会』は、ある就労者の「長年働いていると、福祉の事業所からも定着支援からも卒業してしまうので孤独を感じることがある。病気のことや悩みを聞いてもらえる伴走者みたいな人がいてくれたらいいな」という意見から始まりました。
p39
僕は今の職場に入るまでは就労移行支援などで福祉の世話になってたのだけど、障がい者雇用で働いてきちんと定着した後というのは、そういう障がい者雇用の人間をサポートするような福祉サービスというのは存在してないなと感じた。
今の職場ではパワハラをする上司というのがあり、転職してしまいたいなと考えて転職活動などしてみようとしたのだけど、そもそも障がい者雇用では就職して定職するまではサポートするけどそこから転職するためのことは一切考えられてないなと思った。
障がい者雇用専門の転職エージェントのようなものは存在しているけど、どうも障がい者が自分に合う仕事を探して転職するというよりは、企業の障がい者雇用の採用率だけ埋めるために働ける人を集めてるだけという雰囲気が強い。障がい者が自分に合う仕事を探して職選びをするような余地というのは社会の潮流的になさそうな感じであるな。
そういう日常の中で不便を感じることというのは、ITエンジニア的には社会に働きかけたりをしてでも修正を行わなければならない事なんだよね。僕は新卒の時からSEやってたりとかPMやったりみたいなIT職一本槍ではあるけど、大学の時に先行してたのは心理福祉の学科であるし、こういう社会的な弱者が困ってしまうような問題点というのはみんなで協力して助け合わないとならないと考える。
僕は「人は人を助けることはできない」と思ってる。馬を水場に連れてくることはできるけど、その馬が水を飲むかは馬の自主性に任せないとならない。しかし、その人の生きてる環境を変えることで頑なな考え方も変えることができるんじゃないかと思うのだ。僕が生きてる人生の中で、病のせいで道を違えてどうにもならないような生活を送ってる人というのもたくさん見てきた。
それだけではなく、自分の人生も十全とは言い難い。僕自身のアイデンティティを考える上で、そのように社会に対して多少は働きかける努力をしても良いのではないか? と思った。「人生とは生きるには長すぎるけど何事か成すには短すぎる」。自分の人生で何が成せるんだろうな?