加齢と感情コントロールのテクニック
さーてー、クリスマス・イブイブだ。僕は今日は甥っ子たちにクリスマスプレゼントを買ってあげて、午後は食材を買ったのちにカフェで読書をして、それからニュースレターを書いて現在に至るという感じだね。
なんか土曜日のブログは難しいんだよね。ニュースレターでガガガッと大量に文章を書きまくってるんで、ブログ書く頃には文章書くモチベがほどほどしか残ってないんだよね。僕の文章の書き方というのは感情駆動型であるので、溜まってる感情を吐き出すのを目的に文章を書いてるので、気分が乗らない時はそんなに書く気が起こらんのである。
自分の感じてるエモを乗せる文章を書こうと思うんであれば、その感情が最高潮の時に文章を書くのが良いのだけど、ブログの毎日更新のような習慣を持ってる場合は気分の調子なんかは関係ない。ブログの文章に関しては書いてるうちに気分が盛り上がってきて、文章の流れが生まれてくる感じであるな。
ものを書いたりとか絵を描いたりする人にはありがちだと思うけど、隣の芝は青く見えるというか、自分の書いた文章やイラストというのはそれほど大したことないなと思っている。随分と長い間、書いたり描いたりしてきたけど、その割には自分の作品のクオリティというのは高くなく、ソーシャルでの影響力がなかったりとか人気が出てないのも仕方ないことであるなみたいな感じ。
や、この辺りがよく分からないのである。根本的に僕が描いたり書いたりするのは自分のためであり、そこで他人の評価が入る余地というのは小さくしか残されてないのだけど、こういうのはあまりにも低評価で作品を作ったりするのに慣れちゃったからである。
そこんところの承認欲求的な問題というのは、実のところいまだ僕自身でも未解決なところがある。自分では最高傑作のつもりのエントリーやイラストが完成してみても、ネットで発表してみてもレスポンスはちょっとしか付かないのである。そういう状況を見て僕は大人気なく拗ねるのである。そういう反応をネットで見せるのは恥ずかしいので出さないけど、内心はしょぼんとした状態であり、SNSで大人気なインフルエンサーには嫉妬心が止まらないのである。
まぁ、だからと言って作品を作る手を止めたりとか、情報発信を止めるということはしない。こういうのは加齢によって解決された問題でもある。人間は40歳ぐらいにもなってしまうと、そういう自分は評価されてないけど他人が評価されてるみたいな嫉妬心には「それがどうした」とか「知ったことか」みたいなキーワードで心の中の外野を黙らせることが出来るようになるのである。
どうも、特に日本社会では加齢というのは悪いものと捉える風潮が強く、若ければ若いほどよくて、オッサンは悪であるという捉え方がされるけど、僕自身の感覚としては、30代半ばぐらいから過敏すぎる自尊心というのがすり減ってきてどんどん生きやすくなってきた感覚がある。
ヘッセの「車輪の下」などで描かれるような思春期特有の繊細すぎる感覚というのがあるけども、ああいうのは長い人生を送っていく上で抱えておくには辛すぎる代物である。鋭敏な自尊心というのは、人と自分を比較をすることで足りない部分に気が付くというのはあるかもしれないけど、ちょっとやそっとでは努力をしても乗り越えられない壁にぶつかるというのもある。
ある一定の年齢まではガムシャラに努力をして壁を乗り越えられるということもあるけど、人生もある程度まで歳を重ねてしまうとやれることとやれないことが分かってくるようになる。これは「妥協をする」という表現を使うよりは「己を知る」という境地に近いものだと思う。大体、30も半ばぐらいに入ってくると自分の人生ではどういうことがやれるのかという社会的な役割も定まってきてる。
そうやって自分が周りから期待されてることが何なのかと分かっているので、自分には持ってない才能や能力で成功している人たちをみても「すごいなー」と感じることはあっても、その居場所は自分のものだったということで嫉妬心のようなものは浮かばないものであると思う。
どうも僕はその辺りの感情が枯れきってないので、すごい人を見ると嫉妬心が止まらないのである。しかしまぁ、人生は40も過ぎてしまうと、そこんところの内心のコントロールというのが自然に出来るようになり、「それがどうした」「知ったことか」で黙らせるテクニックが身についてくるのである。
やーでも、加齢とともに間違いなく自分の感情コントロールのテクニックというのは洗練されてるのは分かる。細かいことでクヨクヨと悩まなくなるし、やらないといけないけどやりたくないことでも「しょーがねー」という感じでひとまず終わらせることができる。
村上春樹さんのエッセイの中で知った曲であるけど、ブライアン・アダムスで「死ぬまで18歳」という曲がある。死ぬまで18歳の繊細すぎる自尊心を持って生きるというのはさぞかし辛いだろう。同様の話で、不老不死についても、そういう時間を生きていく上でどのような自意識を持つかというのはSF的な興味がある。