超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。


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少しはお役立ち文章も書くべきかなーと考えたり。

少しはお役立ち文章も書くべきかなーと考えたり。


なんかイライラしてるね。どうも朝から調子があんま良くなくて、対人恐怖症的なメンタリティが出てきてる。


ま、僕の体調というのはこんな感じだよ。先週は調子良かった感じだけど、その日その日でどんどん移り変わる。大体、月の半分ぐらいは体調不良である。これは諸行無常で移り行く川の流れのようなものであるが、振り回されてる本人の方はたまったもんじゃない。でも、ここんところ瞑想をしっかりと日々のルーチンに組み入れたおかげで随分と気分の波が落ち着いてきた方である。マインドフルネス瞑想は、一見すると胡散臭いものに見えるかもしれないけど、ちゃんと時間をとってまじめに毎日取り組めば確実に効果が出てくる。


今日は何を書こうか? 一日中仕事に振り回されていたおかげで何を書くのかまったくのノープランだ。まぁ、僕のブログでちゃんと目的を持って書かれた記事の方が少ない方ではあるけども、僕だってちょっとは一貫したテーマでもってカッコよくバシッと決まった文章を書いてみたいという欲求はもっている。


実際まぁ、そこんところというのは日々ブログを書いていて微妙に悩むところではある。僕は肩書として「雑文書き」を名乗っているけども、それは毎日書いてるブログの文章のように、フリーライティングで書かれたテーマが一貫しない雑文を書き続けてるからという意味ももっている。


僕は毎日こんな感じの雑文を書きまくってるけど、別にテーマをちゃんと決めて整ったパラグラフライティングで書かれてるような文章が書けないという訳ではない。ちゃんと下書きを書いて、ちょっとだけ時間を取るようにしたら首尾一貫したテーマに沿った文章というのも書くことができる。ちょっと昔の話だけど、noteで書こうとしていた時はそんな整った文章を練習するつもりでちょっとだけ頑張っていた。


この辺り、僕自身今の文章の書き方でブログを続けていくのが正しいのか、それともちょっとは世間一般で言われてるような整った文章の書き方を練習すべきか? というのは悩み続けてる。間違いなく言えることは、このブログの毎日更新というのは、いつものように思いつきをただただフリーライティングで雑文を書きまくってるからできることということだ。僕がブログを書こうと思った時は、毎日決まった時間にパッとエディターを立ち上げて、ブログ用の定型文のテンプレートをコピペして、それから1日30分だけ思いついた言葉をダダダっとキータイプするだけだからできてることである。


ちゃんと内容を伴った正しい書き方をしようと思うのであれば、最初に箇条書きなりで書きたいことを整理して、それから並び順などを決めて、そして小論文のようにそれぞれのテーマに沿った肉付けをしていくという書き方になるはずである。このやり方を毎日やることを考えると、流石に毎日投稿を継続するのは無理だろうなーと思うのである。


僕のネット上でのアイデンティティというのは、文章表現でおいて何かしらの情報なり感情なりを表現する者であるということで担保されている。それはこんな風に毎日書くことで表現されてる何かなのであるけど、そこで表現されていることが確かに自分という精神のあり方を表現できていることなのかというのは迷いがある。


ここで書かれている文章は本当に自分の思いつきだけをラフスケッチのように殴り書いたものなのだけど、果たしてそういう他者からの視線もまったく考慮に入れずただただ習慣的に書き綴った文章というのを自分の書いたものとして紹介して良いのか?


いくら僕でも多少は他人からどうみられてるのかとか、よく見られたいみたいな感情は持ってるのである。すべての人から絶賛されるのは無理であるのは知ってるけど、ちょっとは体裁を取り繕った方が多くの人が受け入れやすい表現になるんじゃないかと考えたりする。


んー、でも、確かに言えることは、このブログ上で書かれている文章で表現されてる事というのは自分の肉声のようなものなんだよね。人からよく見られようと取り繕うのをやめて、ただ本当に思いつきを書き殴る文章なのだけど、描き出そうとしてるのは自分のあり方とか生き様みたいなもんだったりする。


40歳というのは「不惑」というけども、こういう自分の行動の指針に対して迷わなくなる境地というのは本当に人生の中である事なのだろうか? 僕は来る日も来る日も毎日自分の行動というのがこれで正しいのか迷いまくりである。不完全な自分に対して与えられた難しい問題を、これまた曖昧な情報だけで「えいや!」と蛮勇でもって意思決定をしているのである。


世の中のいろんな人たちが書いているブログやメルマガなどの文章を読んでいると、賢い人たちはそれなりに定見を持って意思決定をしているようなのだけど、優柔不断な僕はあれやこれやと迷いながら、タイムリミットに迫られてやむをえずにそれっぽい条件を選んでるだけだ。もっと良いやり方はないのかと悩んだりとか、失敗したらどうしようみたいな不安が拭えないのだけど、これはすべての人が持ってる共通の感覚なのだろうか?


仏教で言われてる「悟り」というのはそういうのが全部どうでもよくなった状態なんだろうなーと思うんだけど、僕はそういう抹香臭い考え方が嫌いだ。僕は今回は文章を書くことの迷いについて書いたけど、厚顔無恥なので恥晒しな文章を書いていたとしても「それがどうした」「そんなもんだ」と開き直ってるのである。ひょっとして「不惑」って、加齢により恥の感受性が摩耗したそういう境地なのか? と思うのだけど、紙面が尽きたので今日はここまで。


追記。ChatGPTに尋ねるとすごい本質的なことを言うからびっくりする。この子はブログ道をわかっとる。



そーだよな。自分の個性でもって、世の中の人々が興味を持てることを書くのが本質だよな。毎日書いてても忘れることだ。

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