超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。


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ブログを書くことでポジティブな気持ちを作り上げることができるかも。

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ブログを書くことでポジティブな気持ちを作り上げることができるかも。

ブログを書くことは一種の瞑想だ。


ちょろっとブログネタを昼間に考えていたんだけど、なんか真面目に言語化すると不穏当な内容になりそうなので華麗にスルー。ここんところ、ネットコミュニティに関わるのが心底、嫌になってるらしい。ネットをさまよって必要な情報をインプットするのは続ける。でも、ネットの人間関係というのは、よっぽど気があって親しい人以外は関わる必要がないと思った。これからはネットはわからないものを調べる用途以外では使わないかも。


こういうのたまにある。掘りさげた所で面白い記事にはなりそうにないことを思いついてしまうのだ。こんな不穏当なネタを掘りさげてしまうと、精神にダメージを食らって不機嫌になって寝付きが悪くなる。


昔は、僕は露悪趣味がひどくて、わざわざ人を不愉快にして炎上しそうなことを書いている時期もあった。今は、自分の利益になること以外にリソースを浪費するのは無駄である、と気がついてそんなことはやらなくなった。


ブログで書くことは、自分が生活の中で気がついたこととか、ちゃんと書き残しておくことで忘れないようにすることに限る。このブログは自分の備忘録用途で使おうと思っているのだ。一応、他人の目を意識したちゃんとしたフォーマットで書き綴る。だけども、内容に関しては自分のために自分の必要なことだけを書く。


ブログをちゃんと毎日書く習慣を身につけておくと、思考をスムーズに言語化するのに役に立つ。自分の考えている内容というのは、本人が自覚しているよりはっきりと認識できるものではない。考えていることは、話したり書いたりしてようやく自分でもコントロールできる概念になる。


自分の感情というのも書いてみてわかることが多い。だけど、これはちょっと危険な諸刃の剣である。ネガティブな感情を言語化して、自分の認識にネガティブなフィードバックを返すと、それで不愉快な感情が増幅していくことも多い。


ブログで書くという行為は、自分の感情を整理して、有益に利用していく方法にしたいのである。自分の内観を眺めてみて、その中で未整理だった部分に光を当てて、それを整理することで思考をすっきりさせる。ブログではそういう風な、自分にとって実用的な使いかたをやりたいのだ。


まぁ、ブログで書くことは一種の瞑想みたいなものなんですよ。一日1時間、自分の考えていることにちゃんと向き合って、その内容を言葉として吐き出すことで、こころの重荷を解き放つことができる。自分がすっきりした感覚を味わうために書くのであって、他人のリアクションは二の次だ。


それならばローカルのメモ帳なりノートなりに思いついた事を書く、ジャーナリングをやればよいと指摘なされる方もいらっしゃるかもしれない。これも毎日書き続けて気がついたことなんだけど、他人の目を意識せずに思いついたことを書きなぐるというやり方は、意識のコントロールが働かずに支離滅裂な内容を許してしまう。これではかえって自分の本当に考えていることにたどり着けないんですよね。

人間の自我のあり方を書くことで気がついた。


自分が考えている事柄というのは、自分の中だけで完結しているのではなく、それをコミュニケーションする他人との関係性も影響する。これが僕が今まで生きてきて感じた人間の認知の仕組みですね。自分の軸というのは、本人が思っているほど確固としてぶれないものというわけじゃなくて、それを写す人間関係の鏡でどのようにでも変化する。


人間の自我というのは、その人個人だけで完結するものではない。その人が生きている環境やら遺伝がいやがおうでも干渉する。本人が自覚しているアイデンティティですら、所属している社会階層から得られた属性である場合が多い。


本人が自覚している自分も、環境を変えれば変わる。孟母三遷の教えってやつがあります。こういう意味だ。

子供の教育のためにはよい環境を選ばなくてはならないという教え。三遷の教え。
語源孟子の母は初め墓地の近くに住んだが、孟子が葬式のまねばかりして遊ぶので市場の近くに越した。すると今度は商人のまねばかりして遊ぶので学校の近くに越したところ、ようやく礼儀作法のまねごとをするようになったという『列女伝』の故事から。

明鏡国語辞典より


良い習慣を身につけたいならば、良い影響を受ける環境へ移動するべきなのである。勉強がしたいなら、多くの人が勉強しているカフェに移動するだけで影響を受けるだろう。勉強だけじゃなくて、金銭感覚とか健康習慣などそれ以外の項目についても環境から得られる影響というのは多い。

まとめ


僕がこのエントリーの主題にしたかったのは、「自分が考えている自己像ほど当てにならないものはない」という事だった。自分が頭のなかでどれだけぐるぐると自分の嫌なところとか考えても、それが客観的な評価とも言えないし、その考えで自分の固定観念が強化される。


本当の自分の姿を知るためには、書いてみるか話してみるか、他人とコミュニケーションをしてみないといけない。僕は、本当の自分の考えていることを知るために毎日書くのである。他人の存在を自覚的にして、文章を書くことで気がつく自分のアイデンティティというのがあるのだ。


僕にとっては、本当の自分というのは書いてみないと分からない。また、書いてみることで自分の気持にポジティブなフィードバックを返して気持ちよくなることもできる。毎日書くことが、マインドフルネスみたいな瞑想の役割を果たしているというのはあるかもしれない。


なんか、汎用的な理論化できることならば論文でも書いて出したりとかできるかもな。まぁ、被験者が自分だけのエビデンスがない理論など意味はないけど、仮説はできた。これを実験したり統計したりするのも面白そうだなと思いますけどね。

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