超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。


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それぞれの土地の匂いというのはどうなっていくんだろうね。

それぞれの土地の匂いというのはどうなっていくんだろうね。


今日はちょっと瀬長島の「龍神の湯」でサウナに入ってきた。サムネイルの写真は瀬長島からみることができる海の風景である。


ここんところお疲れだったからね。ちょっと体をリフレッシュさせる休みが必要だなーと感じていたのよ。どうにも疲労が蓄積している感じで、メンタルの方も落ちがちだった。今日、サウナに入ったら随分と自律神経がまったりした感じになったので、少し疲れは取れたのでないかと思う。


瀬長島の「龍神の湯」はとてもおもしろい温泉施設である。ウミカジテラスというホテルのなかにある温泉である。瀬長島というのは那覇空港のすぐ近くにある島なのだけど、そこからは飛行機の離発着を眺めることができる。龍神の湯は飛行場を眺めることができる場所にあるので、温泉に入りながら飛行機の飛び立つ姿などをみることができる場所だね。


おそらく「龍神の湯」は、沖縄の中では一番豪華な温泉施設だよ。そもそも沖縄県民というのは湯船に浸かる習慣というのがないので、あんまり温泉とかも行かないんですけど、僕はサウナとか温泉はものすごく好き。メンタルが落ち込んだりとかして調子を崩してる時に、内地の方に湯治をするために旅行をすると調子が回復してくる。程よくひなびて料理が美味しい温泉旅館なんかに2泊3日ぐらいで旅行をするとすごく調子が良くなるね。


実は今も7月ごろに温泉旅行を計画していて、7月の三連休の頃にまた東京経由で北関東近辺に行ってこようかなと思う。まぁ、また旅行に出かけつつ新幹線の中でブログを書いて投稿する予定だけど、旅に出かけて車窓を眺めつつブログを書くというのもなかなかにオツな体験なのだよね。やっぱり旅というのはいろんなものをものを見ることができて新たな視点ができるし、良い気分転換にもなる。


できれば、玲と真輝の話のために中国地方あたりにも取材旅行に出かけたいなと思うね。玲と真輝のお話に関しては、岡山を中心に瀬戸内海近辺で展開されるお話になってるのよね。これはまぁ、僕はかつて岡山で働いていて、玲と真輝のシリーズの最初の話である「ナナシノユウレイ」書いたのが岡山に居た頃だからなんだよね。


正直言って、沖縄県在住である僕が岡山辺りを舞台の話を書くのは色々と無理がある。僕が岡山に住んでた時期って10年以上前だし、現在では相当あの辺りの風景も変わってしまってるはずである。「イヌガミギフテッド」の舞台は高知の四万十町周辺なのだけど、僕はそこに行ったことがないのである。


ろくに知りもしない場所で小説を書くというのは無茶苦茶な話なのだけど、僕は一応、その地域あたりの街歩き系のYouTubeをめちゃくちゃ観まくって大体の空気感みたいなものはつかもうとしてる。


なんでわざわざめんどくさい思いをしてまで内地を舞台にしたお話を書こうとしてるのかと思うかもしれないけど、沖縄を舞台にしちゃうとそれだけで物語に色がついちゃうんだよね。僕の地元であるし、自分の書く小説でも一番書きやすい場所というと沖縄なんだろうけど、沖縄舞台にしちゃうとそれだけで沖縄の話を書かなきゃいけなくなる気がする。


や、いずれは沖縄が舞台の小説なんかも書きたいなと思うんだけどさ、小説をネットで発表すると一応、日本語圏の人たちが自由に読めるようになる訳じゃない。となると、沖縄の歴史とか文化とかを解説しないとならないような場面とかが大量に発生してくると思われ、とくに物語の伏線とかの筋にも引っかかる訳でもないのに沖縄の設定の情報量ばかりが増える自体が想定される。


一応言ってはおくけど、僕が沖縄の文化圏が嫌いだとかそういうことを言ってるのではなく、僕の脳内に展開されてるお話というのがどうも「沖縄県以外の場所のお話」であるからわざわざ面倒くさい思いをしながら県外の取材をしつつ小説を書いてるのである。僕が今まで大量に摂取してきたコンテンツというのは、大抵の場合は沖縄県以外が舞台になってるお話であり、僕自身が思いつく話というのもそういう沖縄の色がついてない話なのである。


そこんところどうも自分自身のアイデンティティとも影響し合う問題であるような気がする。大体僕ぐらいの年代の人間からはうちなーぐちも使えない人が多いし、沖縄の色合いというのも普通の日本の地方都市と変わりないようになってると思われる。


日本各地の文化がファスト文化になってしまってるというのはちょっと前に言われたことであるけども、グローバリゼーションなどが広がった世界というのは日本丸ごと文化が消えちゃうということもありうるよな。そういうファスト文化で生まれ育った世代の僕らというのが見ている世界観というのが僕の小説などにも反映されてるのだろう。果たして、人間を描くときに生まれ育った土地の匂いなどを嗅がずにできるもんなのか? と思うんだけど、都会には都会の風景があるのだろう。

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