超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。


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人間関係は大事な人との付き合いに絞り込むのが幸せな生き方。

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人間関係は大事な人との付き合いに絞り込むのが幸せな生き方。

よく知りもしない人たちに見栄を張るのは無駄だ。


人間というのは他人をdisるのが好きな生き物であるなと思うんである。twitterなんぞを眺めていただくと、毎日誰かが誰かに難癖を付けて喧嘩をしている。そういうのが今まで身近で分かるようなスペースというのは無かったかと思うんだけど、SNSによって一気に可視化されたよね。


なんかこれは他人事でもなくて、自分も誰かをdisるのが大層大好きなんだろうなと思う。金稼ぎ系の人間が駄目だの意識高い系が駄目だの色々と言ってはいるけども、そんな事、該当の人たちは意見は求めていないであろう。別に相性が合わないという事が分かっているのなら、黙って離れて関わらないように生きていればよいだけであり、なんやかんや言われるのは余計なお世話である。


最近、twitterの依存率をぐっと下げることに成功したのだけど、これによって随分生きやすくなったなと思う。twitterの辞め方に関してはここで書いた。


www.ituki-yu2.net


どうでもいい他人の期待に応えるのをやめるだけで自由になれた。twitterをやってつぶやいていると、意識しなくてもツイートに対していいねが返ってきたりだとか、フォロワーが増えてくると他人の目を意識し始める。SNSはそういう人間関係の無意識の部分をうまく利用して依存させようという仕組みなんである。TLは眺めたりして情報収集に使ってるけど、別にいいねとかのレスポンスは不要だと思ってつぶやくのはすっぱりと辞めた。通知とかも全部切ってありますけど、随分と心静かに日々を送れるようになったなと思う。


twitterでつぶやくのを辞めてみて気がついたんだけど、我々は情報社会に入って気軽に色んな人と繋がれるようになったのだけど、それによって人間関係のいらん所を沢山、背負い込むようになってるよなーと思う。身近なリアルの人なら兎も角、全くの他人でどうでもいい人たちの思惑によって感情を乱高下させるのは無意味だ。今日はその辺りでも書いてみようかと思う。

人間が付き合える友達の人数は限られている。


鈴木祐著の「最高の体調」の中で述べられていたかと思うけど、人間というのは同時に5人以上の人と親密な付き合いをする事ができないという。「多くの人は、自分のネットワークに新たな友人が加わると、昔のネットワークとはコンタクトしなくなっていく、親密な関係を維持するためには、多大な認知機能と感情の投資が必要になるのが大きな原因だろう」という。例えば、大学でどんなに親密な付き合いをしている親友が居たとしても、社会人になって新たな付き合いで親友ができると古い友だちとは疎遠になっていく。人間は多くの人間と直接付き合えるようには設計されてないのである。


たしか、ユヴァル・ノア・ハラリの「サピエンス全史」で読んだのであったかと思うけど、ホモサピエンスというのは元々、狩猟民として色んな所を旅して生きていたので集団を作らなくても良かったのだけど、農作物を作り始めて一つの場所に固定して生きるようになると集落を作って大人数で暮らす必要が出てきた。大きな集団をまとめて生きるのに共通する考え方が必要だから宗教や社会制度を作り始めたのだという。


こういうのは文化人類学ダンバー数といって定義されている。この様な考え方だ。

ダンバー数(ダンバーすう、英: Dunbar's number)とは、人間が安定的な社会関係を維持できるとされる人数の認知的な上限である。ここでいう関係とは、ある個人が、各人の事を知っていて、さらに、各人がお互いにどのような関係にあるのかをも知っている、というものを指す[1][2]。 ダンバー数は、1990年代に、イギリスの人類学者であるロビン・ダンバーによって初めて提案された。彼は、霊長類の脳の大きさと平均的な群れの大きさとの間に相関関係を見出した[3]。ダンバーは、平均的な人間の脳の大きさを計算し、霊長類の結果から推定する事によって、人間が円滑に安定して維持できる関係は150人程度であると提案した[4]。 ダンバーはこれについて、「もしあなたがバーで偶然出会って、その場で突然一緒に酒を飲むことになったとしても、気まずさを感じないような人達のことだ」というように咬み砕いて説明している[5]。

ダンバー数を超えると、大抵の場合で、グループの団結と安定を維持するためには、より拘束性のある規則や法規や強制的なノルマが必要になると考えられている。ダンバー数については、150という値がよく用いられるが、100から250の間であろうと考えられている[6][7]。 ダンバー数とは、知り合いであり、かつ、社会的接触を保持している関係の人の数のことである。社会的交流が途絶えた知人についてはその数に含まれず、また、知っているが持続的社会関係を欠く相手も含まれない。このような知人の数は、ダンバー数よりも遥かに大きな数になるのが普通であり、それは長期記憶容量の大きさに関係するのであろう。

ダンバー数 - Wikipedia


このように一人の人が認知することができる知り合いの数というのは限られているのだけど、SNSではあっさりとその数を凌駕する。つまりは、twitterなんぞで何千人とかフォローしている人がいたりするけど、あの人達はそのフォローした人たちとほとんどまともに人付き合いできない。情報社会というのはこんな風に人間の本能と相反することをしようとさせるよね。


人間が楽に生きようと思うのならばSNSは本能と反したことをさせようとするので辞めといた方が良いです。もしくは制限付きにしておいて、自分が認識できる範囲の人と付き合うようにする事が生きやすくするコツだろう。

まとめ


今日はブッダの言葉で締める。

何かを成し遂げようとしたならば、黙々と一人で没頭しなければならない時があります。

しかし一人で黙々と目的に向かって努力し続けるというのはなかなかできることではありません。

特に、日本のような集団の調和を重んじるような文化にあってはより困難なものであるでしょう。

面白いことにお釈迦様はこの詩句の少し前でこんなことも述べておられます。

「四〇 仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め」

中村元訳『ブッダのことば』「第一、蛇の章、三.犀の角 p18」

もちろん、良い仲間と共に研鑽し合うことは大切だとお釈迦様は他の箇所でも述べています。

しかし、やらねばならぬ時には一人でやり通すのだという覚悟を持てとお釈迦様は述べるのです。

「犀の角のようにただ独り歩め」~お釈迦様のことばに聴く – 僧侶上田隆弘の「お坊さんも自問自答ブログ」


人というのは支え合って生きていくものであるし、一人では生きていけないものであるが、ただの寂しさを紛らわすためによく知りもしない人たちと群れるのはなんの成長にもつながらない。関係を絞ることがかえって本当に大事な人達に囲まれて暮らす幸せにつながるのかもしれない。街の喧騒のなかで孤独を感じることもあるだろう。本当に大切な人との関係を大事にすることが、人生の本当の幸せに繋がる。

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