超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。


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「型に嵌まらない自意識は見るに耐えない」と言ってるのはこういう意味です。

「型に嵌まらない自意識は見るに耐えない」と言ってるのはこういう意味です。


しまったなーという感じ。ちょっと小説を読み耽っていると時間が経ちすぎており、ブログを書く時間を微妙にすぎてしまった。今日は睡眠時間が削られてしまうかもしれない。


今日の日記を書いておくか。今日は午前中は食材と大五郎の餌の買い出しに出掛けてきて、午後からは那覇ジュンク堂にブックサンタをするために本を買いに行ってきた。ちなみにきちんとブックサンタはやってきたのでステッカーと感謝状をもらった。



今回は浅田次郎の「プリズンホテル・春」と「アルジャーノンに花束を」を送ってきた。僕的には読んだ子供達に読書にハマらせたいなと思うのでこのチョイスである。どっちも普通に面白い小説であるしね。僕は大学生ぐらいんときにこの両方の小説を何度も読み返していたと思う。


それにしたって最近は小説を読まなさすぎである。一応、朝の通勤時間にオーディオブックで村上さんの「ノルウェイの森」とか「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」あたりを聞いたりしてるけど、いろんな人の小説を読みたい読みたいと思いつつ手が動かないでいる。


僕はとりあえず創作で小説を書くタイプの字書きな人間なのである。それなのに他の人の作品をあまり読まずに作品を書くと独りよがりな作品になってしまうだろうし、作品の中で表現できるニュアンスみたいなものが浅いものになってしまう。


実のところ今日読み耽っていた小説というのが自分の書いた小説なのだけど、僕と同じような字書きにはよく分かる感覚じゃ無いかと思うんだけど、自分の書いた小説って自分で読み返すとめちゃ面白いのである。「なんでここまですごい物語が埋もれてるのだ!」となぜか義憤に駆られてしまい、意味もなく南南西の方向に叫びたくなるのである。


や、まぁある程度誇張した表現だけど、実際、自分の小説は自分で読むと超楽しい。やっぱり自分が見てみたい場面を書いているのだから、作者自身が自分の書いた小説を読み返したのならその光景が高純度で思考の中で再生されるのである。これは作品の巧拙とかソーシャルでの人気は全然関係なくて、その作品を書きたくて書いたという愛があるのなら自分で書いた小説はめちゃ楽しいのである。


僕はそういう自分で読み返して楽しい作品を増やすために創作活動をしてるところがある。そりゃまぁ他の人に読まれて感想がもらえれば嬉しいけど、どうにも僕はマーケティングのテクニックなどは無いようである。自分がこんなのみてみたいというキャラクターやシチュエイションのままに駆動してキーボードを叩きまくり、出来上がるのは自分が一番楽しめる作品である。


そこんところよく分からないよね。僕が創作をやる理由というのは結局のところ、「自分がこんなの見てみたい!」みたいなイラストであるとか小説を書くことが目的であるんだけど、どうにも実際に創作活動をしてる時は中途半端に他人の目が気になってしまうというか、あまりにも内にこもりすぎたような表現というのはしたくないなとも感じるのである。


世の中にはイラストにせよ文章にせよ、いろんな創作技法というのがあるのだけど、そこんところのテクニックというのは要するに他人に受け入れられやすくするための「型」を学ぼうということであり、絵にせよ小説にせよそこの所のテクニックを全く無視した作品というのは、技量が凄くてもそもそもの作者の意図が分からないということがある。


現代芸術なんかを考えて欲しいのだけど、ああいう作品を見るときはその作品が作られた時代背景であるとか作者の説明というのが割と重要である。美術館なんかでは作品の他に解説がたくさん書かれていたりするけど、実のところ美術館に行くときは作品の解説も含めて作者の表現したい意図を読まないとあんまり意味がない。


たとえば、マルセル・デュシャン「泉」というのは単なる男性小便器がぽつんと置かれてるだけの作品なのだけど、この作品を単体でみただけでは何のことなのかわざと分からないように作られている作品である。二重三重にもメタに意味を持たせてるというやつであり、現代芸術などではこういうのが良くある。むしろ作品そのものより解説の方に力を入れてる。


だからまぁ、創作をするためにも「型」を学ぶというのは重要なのである。フィーリングだけで作品を作ったとしても、その作者が伝えたい意図というのが受け手の方に伝わらない作品というのは、どれだけ作者がこめた意味が凄くても失敗作である。その伝えたい意図が伝わるようにするテクニックというのは、コミュニケーションのテクニックである。


僕はここんところの考え方では、「伝えたいことがない作品は芸術じゃない。伝わらない作品も芸術じゃない。」みたいな考え方をしており、だから芸事では形稽古というのが必要なのであるという結論に結びつけるようにしてる。僕がよく使う警句の中にも「型に嵌まらない自意識は見るに耐えない」という表現をよく使うけど、言わんとしてることは今日書いたようなことである。

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