超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。


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嫁さんが文章のスランプに陥っておる。

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嫁さんが文章のスランプに陥っておる。


なんか、嫁さんがスランプに陥っておる。ブログを書いても面白い文章が書けなくなったのだという。


「別にそんなことないよー」みたいな事は言ったが、まぁブログを毎日書いていると誰でも陥るあるあるだろうなーとは思う。僕も毎日書いていると文章の密度が下がった気がして、もっとインプットを増やすべきだろうか?とかしばらく書かないで心の内圧を高めた方が良いだろうか?とか悩んだ時期があった。


僕の結論としては、面白い文章を書きたいならば毎日たゆまず書き続けるほか無い。僕も小説を上手くなるためというのがブログを毎日更新する理由のひとつなのだけど、理論的な勉強も必要かな?と思って文章読本を色々と読んでいる。


「文章のみがき方」(辰濃和男著)から引用する。

渾身の力といえば、アメリカのジャズピアニスト、ハンク・ジョーンズの話が朝日新聞に載っていました。2007年に88歳になったジョーンズはいっています。
いま、レパートリーは2千曲はある。しかしまだ知らない曲がたくさんある。

「私はまだまだ向上したい。だから今でも毎日2,3時間はピアノに向かっている。練習をやめたいと思ったときが終わりなんだろうね」(「朝日新聞」2007年1月10日・夕刊)。

こういう記事を読むと、渾身の力というのは瞬発性のものだけではなく、持続性のものでもあるということがよくわかります。90歳近くになっても、1日2,3時間はピアノに向かう、という根気は、これはもう、尋常な持続力をはるかに超えています。

文章の世界でも同様でしょう。90歳を過ぎても、すばらしい文章を書きつづける持続力をもった人はたくさんいます。プロとアマは違う、われわれは好きで文章を書いているのだ、なにもプロのまねをする必要はないという人がいるでしょう。でも、あえていいます。90歳になって「まだまだ向上したい」という思いを持ちつづけることには、プロもアマも、境はないのではないか、と。


文章のみがき方 (岩波新書)

文章のみがき方 (岩波新書)


僕も嫁さんもブロガーだし、お互いに小説を書くので文章力を向上させたいと思っている。僕が文章力の向上にとって必要不可欠だと思っているのは、一日にある程度まとまった文章を、それなりのクオリティで毎日書き続ける練習だ。たしか、よしもとばななも文章はピアノと一緒で3日休めば3日分下手になるとかエッセイで書いてた気がする。


しっかしまぁ、僕はどっちかと言うと理詰めで文章を書くスタイルだけど、嫁さんは内面を覗き込んでパッションのままに浮かんだ文章をエディターに叩き込むスタイルなので、僕とはまた違った方面のアプローチが必要なのかな?とも思うのである。なんか、僕の方法で練習していると却って書きたいことが書けなくなってしまいそう。


なんか、僕がどうこう言って導くのは無理筋だよなーとは思う。嫁さんは嫁さんなりのアプローチの方法があるんだろうけど、そっちの方法は自分自身で探り当てるしか方法はないのではと思う。


なんか、僕がやろうとしている文章修行のアプローチですごく勉強になったのはfujiponさんのこのエントリーだ。


fujipon.hatenablog.com


この辺りとか嫁さんのアプローチとして参考になるかなーと思った。


日本デザインセンターでのぼくの暴力沙汰はもう一つあった。
 …いつも3時になると皆んなでおやつを買ってきて食べるのが半ば一日の慣習みたいになっていた。
 ある日ぼくが外出から帰ってきたら、
 部屋の中央の大きい作業机を囲んで
 全員でおはぎを食べている最中だった。
 ぼくはいいところへ帰ってきたと思い、
 早速舌なめずりしながら座に加わった。
 ところがぼくは人数に入っていなかったのか、ぼくの分がなかったのだ。
 ぼくがここにいる誰よりもおはぎが好きなのは周知のはずである。
 ぼくは完全に仲間外れにされたという疎外感に逆上してしまった。
 その時ぼくに対して不謹慎な笑みを浮かべたのが植松国臣だった。
 ぼくは一瞬生かしておけない奴だと思って、
 いきなり植松さんに飛びかかっていった。
 が、上手くスルリと身体をかわされ、ぼくは床に思いっきり叩きつけられる格好になってしまった。
 もうこうなったら全身の血は逆流、
 細胞の一つ一つが怒りの火の玉と化してしまった。
 眼から涙がワッと噴き出した。
 泣きながら何やら喚いているぼくの姿を見た彼は危険を察知したのか、
 真青になって廊下に飛び出してしまった。
 ぼくは獲物を追う野獣のように彼に飛びかかっていった。
 だけど通りがかった「日本鋼管」のチーフの木村恒久
 背後からがっちりと羽交い締めにされてしまった。
 あとでぼくと植松さんの喧嘩の原因を知った連中は
 皆んな大笑いしたようだが、
 ぼくにとっては
 これ以上の純粋行為はなかったのだ。

                   (『横尾忠則自伝』文藝春秋から抜粋)

 著者であるズーニー山田さんは、この文章に対して、
「じゃ、何が書いてあったか、極力短く! 一文で言ってみてください」
 という「課題」を出すのです。


 ズーニーさんは、「ありがちな答え」として、

日本デザインセンターでの暴力行為は、ぼくにとってはこれ以上ない純粋行為だった。

 というのを挙げておられますが、僕も同じ問いを試験問題として出されたら、おそらく、「日本デザインセンターでの(おはぎをめぐる)暴力行為は」と少し付け加えるくらいの解答をすると思います。


 でも、ズーニーさんはこの文章から、【「自分の中からわきあがってくる印象に忠実である」という芸術家の覚悟を感じ】て、

 僕は、人から笑われようと、子どものような純粋さで衝動に突き動かされる瞬間こそ尊いと思う。

 という一文にまとめられています。
 ちなみに、この文章を読んだ糸井重里さんは、こんなふうに要約されたそうです。

 ぼくはおはぎが好きだ!

 これを読んだ僕は、思わず手を打って喜んだわけです。ああ、さすがは糸井さんだなあ!って。


 でも、今になって冷静に考えてみると、ちょっと違和感があるんですよね。
 「ぼくはおはぎが好きだ!」って、本当に「要約」なのでしょうか?
 率直に言うと、これって、「要約」ではないと僕は思うんですよね。もちろん、この文章から、横尾さんの「おはぎ愛」は痛いほど伝わってくるのですが(というか、こんなエピソード、よく記憶していたなあ、と)、これを「おはぎが好きだ!」にしてしまうのって、かなり「偏った約しかた」だとしか言いようがありません。
 それでも、多くの人は、この糸井さんの「言葉の力」に惹きつけられるのです。それはもう、要約として「正しい」とか「正しくない」とか、そういう問題ではないんですよね。
 要するに、読者は、「日本語として正しい文章」を読みたいわけではないのです。


嫁さんに必要なアプローチっておそらく、この糸井重里さんのセンスの事だと思うんですよ。日本語的に優れた文章を書きたいとかそういう訳じゃなくて、直感的に一発で本質にたどり着いちゃうようなコピーライターのセンスなんだと思う。だとすると、僕みたいに文字数長くしてダラダラ書くよりも、俳句とか詩の様な抽象的な言葉の使い方をする方向性が正しいのではないか?とか考えた。


嫁さんが求めているのって「言葉の強度」なんですね。僕が目指しているのは井上ひさしが言ってる「一番大事なことは、自分にしか書けないことを、誰にでもわかる文章で書くということ。」という言葉が示すような、スルスル読めてなんとなく納得させられてしまうような文章だったりするのですけど、嫁さんはインスピレーションのままに凄い言葉を創作しちゃうんですね。勉強の方向性としては面白いと思う俳句を集めたりとか糸井重里さんの「今日のダーリン」をちゃんと読むことだったりするのかなぁと思いました。

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