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「ある男」(平野啓一郎著)を読了した。

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「ある男」(平野啓一郎著)を読了した。


平野啓一郎の「ある男」を読了したので、今日はその感想について述べて参ろう。まあ、僕は平野啓一郎の作品については 芥川賞を受賞した「日蝕」を図書館で借りて読んだぐらいなのだけど、とにかくよく資料を調べて細かいディティールの作品を書く人だなあーと思っている。最近だと「マチネの終わり」とか今回読んだ「ある男」のような作品をよくTwitterで聞く。


今回「ある男」を読もうと思ったのも、 Twitter で分人主義とかそういう思想的な部分でなんか色々と凄いみたいな噂を聞くのでいつか読んでみようと思って、 Amazon で半額セールしてる時に買っておいたのだ。このところ読書傾向では哲学とか人類学とかそういう風な固いものをたくさん読んでたので、たまには小説でも読んでみたいなと思って積読していたこの本を読んだ。


どうすっかな、とりあえず僕は自分の後から思い出すためのメモ書きのつもりで本の感想ブログに書いてるのだけど、小説などはネタバレが嫌でしょ?僕は、感想そのまま書くつもりなので内容に触れる部分もあるかもしれない。ネタバレが嫌な人はここで回れ右してください。


さて警告はしましたよ? 感想を述べてまいろう。


本作「ある男」で描かれてるのは徹頭徹尾人間のアイデンティティに関する話ですね。この作品の中でメインの問題として描かれてるのは、人生を取り替えるというサービス(これは詐欺師がやっている)で人生を入れ替えた男の半生を、弁護士が追っていくという筋の物語である。


人生というものが簡単に入れ替え可能なのか?例えば今の人生に満足していなくて、別の人生を生きられるのか?など、ちょっと人生に満足してない人なら考えそうなアイデアを徹底的に膨らませた感じである。この作品の中では、人生を入れ替えた人たちが複数に現れる。それは犯罪者だったり、知的障害者だったり いわゆるアウトサイダーな人間達が幸せを求めて他の人の人生を乗っ取ろうと企んで、それでも結局、その人なりの人生を送って行く人たちばっかりだった。


その中で物語のメインになるある男は不幸な人生の末に人生を入れ替えて幸せな半生を送るのだけど、この物語ではその数奇な運命を主人公が 後から調べていくのであり、物語の見どころとしてはこの主人公、城戸が谷口大輔の人生について共感を覚えながら自身のアイデンティティについて自問自答するところであろう。


この主人公はの城戸も在日3世であり、近年の日本の反韓の排外主義を見て自身のアイデンティティについて悩んでいる。この作品のもう一つのテーマが在日韓国人が日本の中でどのようにこの社会を見てるかであろう。


関東大震災の後の韓国人虐殺事件などのように、日本ではこのような排外主義をめぐる事件があり、近年になって反韓ブームやヘイトスピーチをするデモ隊など排外主義が盛り上がってきている。


このような時代の中で主人公の城戸は日本人であるけどルーツが違う自身の存在に対して言い知れない違和感を持ち続けている。そんな中で人生を入れ替えて幸福な人生を送った、谷口大輔の人生を調査しながら、この人生の入れ替えに対しての憧れともつかない感情を抱く。実際に自身でも谷口大輔の名前を名乗るシーンがある。


城戸はそれなりに恵まれた人生を生きてるのだけど、妻との関係に悩んでいる。そして調査の途中で出会った女性と不倫に近いような関係に行き着きそうになる。そういうアイデンティティが中年期になって危うくなってくる「ミッドライフクライシス」をこの作品が丁寧に描ききる。


作者のアイデンティティに対する考え方は死刑囚の作品ばかりを集めた美術展で、城戸が感じたこの感想によく表れてるだろう。

冤罪の訴えにしても、犯行自体の否認は、意外に少なかった。自分はそんなことはしていない、というのではなく、寧ろ、自分はそんな人間ではないと必死に叫んでいる。行為ではなく、存在そのものを抗弁している。なぜなら彼らは、国家によってその存在を無に帰せしめられようとしているのだから。── 犯した罪からは想像もつかない愛らしい絵を描く死刑囚は、自分の存在の痕跡を、やがて消滅する肉体とは別の外部に、どうにか留めようとしている。それらは、殺人犯として処刑される際、諸共にこの世界から抹殺される、彼らの〝意外な一面〟だった。もし人格を切り分けられるとするなら、道連れにされる犠牲者のようなそれらの存在を、彼らはやはり、死の恐怖の底から、必死で広告しているのかもしれない。


人間のアイデンティティというのは、別に唯一無二のものではなく入れ替え可能だとこの作品では主張しているのである。死刑囚はその存在を消されそうになった時に芸術作品にアイデンティティを逃がそうとする。自身の存在が消えたとしても、芸術に存在を残そうとするのだ。


この作品ではこのような自分のアイデンティティーを使ってどういう風なものを後世の人に残すのか?みたいなことがテーマになっている。自分が死んだとしても後に残った家族たちの中に何かを託したりとか、死刑囚たちのように作品に何かを残したりとかそういう人間のたくましさが述べられている。一方で谷口大輔のように簡単に自分の人生を誰かと入れ替えて、人生から逃げようとするのだけど、結局そうやって捨てた人生であっても残ってしまう本質的なもの、そういうのを作者は描きたかったんじゃないかな? と思う。


後は総評に変えて僕の感想など。


この作者、平野啓一郎氏は細かく資料を調べてディティールが細かい作品を書くなあと思った。この作品の舞台は2010年代後半の僕らが生きている今現在である。使われている小物も、 LINE だったり東日本大震災だったり Facebook とかそういう 現代的な小物 が重要な役割をする。しかしながらこういう今現在の舞台を扱った故に数年後には時代遅れになるんじゃないか?という恐れもある。多分、平野氏が問いたかったのは、現代において生きている現代人の アイデンティティどこにあるかを問いたかったのだと思う。


まぁ、それ故に普遍的ではないなと思った。 現在の物語であって、人間存在全体を問うには普遍性が足りない。現代的な小物が物語に没入するのに違和感を感じさせた。ディティールが先鋭的すぎて一般的じゃないと思った。


まあ感心はしたんだけど後に残るものが少なかったなぁと思った。まあ僕の個人的な意見ですけど。


ある男

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