超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。

ゴールポストが動くタイプの努力をしている。

ゴールポストが動くタイプの努力をしている。


昨日は筋トレがなかったから、絵の練習をしていた。コントラポストを30分やって、Pinterestの写真を見ながら30分模写をひとつ。模写したものはあとで貼っておこうと思う。


体がまったく描けないわけじゃない。でも、胸郭と骨盤の立体理解が甘い。これがいちばん痛い。表面上はそれっぽく見えるんだけど、ラフで骨盤を立体として組み立てようとすると、急に曖昧になる。だから複雑な構図や俯瞰が描けない。そこが詰まる。だから最近は基礎訓練に戻っている。遠回りに見えるけど、結局ここを避けては通れない。


で、そんな基礎練をしながら、自分の「努力」について考えていた。


僕はたぶん、世間的には努力家の部類に入ると思う。毎日ブログも更新しているし、絵も描くし、小説も書くし、プログラミングもやる。でも最近気づいたのは、僕の努力は「成功するための努力」じゃないということだ。これは「失敗しないための努力」なんだと思う。


積み上げたから自己肯定感が上がる、という構造になっていない。失敗したらどうしよう、落ちたらどうしよう、その不安を回避するためにやっている。だから評価軸が減点方式になる。できたことは当たり前。できなかったらマイナス。これじゃあ、いつまで経っても楽にならない。


ブログもそうだ。もともとは病気で落ちた認知機能のリハビリとして始めた。毎日書くことで頭を取り戻そうと思った。おかげでだいぶ安定してきた。でも、じゃあ少し力を抜いてもいいかというと、それができない。最低1500字以上、読みごたえのあるものを書かないといけない、という内なるルールがある。


しかも有料にしているわけでもない。無料で、一定以上のクオリティを保ち続ける。それができて当然、という前提になっている。できたから偉い、ではない。できなかったらダメ。それが僕の基本設定だ。


絵も同じだ。これくらい描けて当たり前。描けない部分があれば「なぜできない?」と自分を詰める。小説が書けても、プログラミングができても、「これくらい生きていれば誰でもできるだろ」と、どこかで思ってしまう。冷静に考えればだいぶ失礼な発想なんだけど、無意識はそう採点する。


だから何をやっても満足がない。できなければ落ち込み、できてもゼロ地点。ずっと減点方式のテストを受け続けているみたいな人生だ。正直、しんどい。


このパターンは、たぶん病気のときに強化された。これ以上落ちないように、必死で踏ん張る。頑張らないと壊れる、という恐怖。そのときの行動様式が、自動思考として組み込まれてしまった。頑張らない自分はダメだ、という前提が無意識レベルに刻まれている。


その結果、実際にはそれなりの成果も出しているのに、本人だけがそれを認めない構造ができあがった。


完璧主義。白黒思考。認知行動療法の本で見た単語が、きれいに当てはまる。頭では理解している。70点でよしとしろ、とか、あえて小さな失敗をして慣れろ、とか、そういうアドバイスも知っている。でも、知っていることと、できることは別だ。それができたら苦労はしない。


とはいえ、このままだとずっと苦しい。


仮に基礎訓練が実を結んで、かなり良い絵が描けるようになったとしても、きっと僕は言うだろう。「これくらい当たり前だ」と。100点じゃないと完成じゃない、と。どこまで行ってもゴールが動く。地平線を追いかけているみたいなものだ。


だから最近思うのは、完璧主義をなくす、というより、まずは「減点方式で採点している自分」に気づき続けることなんじゃないか、ということだ。いきなり加点方式に変えるのは無理でも、「あ、また減点してるな」と自覚する。それだけでも、ほんの少し距離ができるかもしれない。


努力そのものは悪くない。基礎練も、毎日のブログも、僕にとって大事な営みだ。ただ、それが「失敗回避」のためだけに使われると、人生がずっと防御戦になる。どうせなら、何かを積み上げていく側に使いたい。


うまい答えはまだ出ない。正直、どうすりゃいいのかもわからない。でも少なくとも、この構造に気づいたのは一歩だと思いたい。


今日もたぶん、コントラポストを描く。ブログも書く。相変わらず減点しながらかもしれない。それでも、その採点表をちらっと横目で見るくらいの余裕は、持てるようになりたい。


満点じゃなくても、生きていていいはずだから。

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