
幸せになるには練習が必要なのだろう。
連休明けの朝は、どうしたって気が重い。だけど今朝は、その重さの中で、ひとつはっきりしたことがあった。人生は、不幸に目を向ければどこまでも不幸になれるし、幸せに目を向ければ、ちゃんと幸せにもなれる、ということだ。たぶん当たり前の話なんだけど、今日はそれがやけに腑に落ちた。
うちのおかんは離婚していて、いまだに親父の文句を言い続けている。もう二度と会わない相手なのに、何年も何年も、頭の中でだけ関係を続けているみたいなものだ。少し言い返してみたけど、結局、誰かを恨み続けるっていうのは、その人を罰しているようでいて、実際は自分の機嫌を悪くし続けているだけなんだと思う。そこには、ほとんど益がない。
それを考えたとき、僕自身のことも浮かんだ。このブログでも、わりと「不幸だ」と書いてきた気がする。でもそれは、現実が全部不幸だからじゃなくて、視点が不幸にロックされているからそう見えていただけなんじゃないか。
僕は障害者雇用ではあるけれど、働けている。大五郎さんもいる。趣味で絵も描けている。過去の自分と比べたら、今のほうがずいぶん安定しているし、相対的に見れば、ちゃんと幸せの側にいる。にもかかわらず、ひとつ嫌なことがあると、そればかりを反芻して、世界全体が曇って見える。
どれだけ空が青くても、頭の中がモヤモヤで埋まっていたら、その青さには気づけない。環境が恵まれていても、悩みに囚われていれば、体感としてはずっと不幸なままだ。人間の脳は、危険を察知して生き延びるために、ネガティブな情報を強く拾うようにできているらしい。サバンナでの生存戦略の名残だと考えれば、まあ仕方ない。
でも、その仕組みを知っているなら話は別だ。自分は今、脳の仕様に引っ張られているだけかもしれない、と一歩引いて見られたら、案外あっさりスランプを抜けられることもあるんじゃないか。実際にはそこまで極端に不幸じゃない、と気づける余地がある。
具体的な方法は、昔から言われているようなことでいい。寝る前に「今日よかったことを三つ書く」とか、そういう地味なやつだ。幸せに“気づく”ための訓練をする。特別なことじゃないけど、たぶんあれは理にかなっている。
考え方を一発で切り替えて、今日からポジティブ人間になる、なんてことはない。スポーツと同じで、いざというときに自然に動けるようにするには、普段からの反復がいる。試合当日に急にハットトリックはできない。日々の基礎練習があって、ようやく一本入るかどうかだ。
幸せになる考え方も、それと同じなんだと思う。落ち込んだときにいきなり「前向きになろう」としても難しい。でも、普段から小さないいことを探す癖をつけておけば、いざというとき、その習慣が自分を助ける道具になる。道具箱を揃えておく、という感覚に近い。
環境を完璧に整えようとしてジタバタするよりも、「まあ嫌なことはあるけど、これもあるよな」と言える視点を持っておくほうが、たぶん強い。どんな状況でも、ひとつくらいは褒められる点がある。それを見つける訓練をしているかどうかで、同じ現実でも手触りが変わる。
僕もまだ、すぐに不幸側へ傾く。でも今日、少なくとも「傾いている自分」に気づけた。ブログにこうして書くこと自体が、ひとつの訓練なんだと思う。記録することで、自分の視点の癖を可視化する。
だから今日の結論はシンプルだ。幸せは、探さないと見えない。見えないままにしておくと、不幸だけがやけに鮮明になる。だったら、探す練習をするしかない。地味でも、繰り返すしかない。
連休明けの重たい朝に、そんな当たり前のことを思った。嫌な朝だったはずなのに、少しだけ視界が晴れた気がする。たぶん、こういう小さな気づきの積み重ねが、僕の生活を静かに底上げしていくんだろう。