自分の小さな枠を抜け出すのは「勇気」である。
今日は午前中から美容室の予約をしてたので、髪を切りに行ってきた。その後、午後からカウンセリングの予約が入っていたのでそちらにも訪問。
カウンセリングでは色々と考えること多々。ちょっと僕は母親との関係のことなどを考えるのだけど、少なくともまぁ、僕は母親と妹には感謝をせねばならぬのである。僕の統合失調症が一番ひどい時期というのは、比喩ではなく死にかけたので、それを助けてくれたのは家族だった。
母親はそろそろ認知も入りかけているし、今、できる限りコミュニケーションをとっておかねばあとで後悔するのは自分だろうなーと思う。そこんところはなんとかせんとならんと思う。
などと重い話を書いているが、こういうことはできる限りローカルのメモ帳の上でやることだろうな。ちょっとね、少しは自分の考えていることを外部にも漏らしておかないと、どうにも自分は満足できない体になっている。中途半端な匂わせ文章ではあるが、あんまこの辺りのことを他人とも共有したい感情ではない。
ま、カウンセリングには色々と救われてるよね。こういうプライベートすぎることに関しては、友人にも話すことができないし、ましてはブログで全世界公開というのも論外である。僕がいうのもなんだけど、あまり内面の柔らかすぎるところをネットに晒さない方がいい。
基本的に他人とのコミュケーションにおいては、「分かり合えないもの」として考えるのが普通になっている。自分がいかに丁寧に言葉を尽くして相手に自分の考えてることを伝えようとしても、コミュニケーションには齟齬が発生するものであるし、家族や夫婦のような親しい間柄でも相手の考えてることは100%は伝わらない。
そんな中で、自分も相手の考えてることは100%は分からないけど、相手を信用して協力し合おうと思うのは、「思いやり」ではないかと思うんである。
相手のことは完璧にわかるのではないけど、それでもある程度は譲歩して相手の言ってることを信用して、相手と協力してやろうという気持ちというのは、利益や打算の部分もあるけど、それでも相手が少しでも幸せになってくれれば良いと思う気持ちが必要かなと思う。
僕が今言わんとしてるのは、エマニュエル・レヴィナスの「他者論」のようなことを書こうとしてるんだと思う。レヴィナスは自己の存在というのは他者の存在により支えられているというようなことを書いていたかと思うんだが、僕はこの理論については孫引きで他の本で読んだ程度に過ぎないので、あまり大っぴらに内容を断言してしまうのも恥晒しだろう。
他人の存在というのは信用できないものである。これは人間の心理なんかを考えてみたらわかると思うけど、人間という動物は何か災害や他の危険な動物よりも、コミュニティから弾き出されて孤独になる方を恐れる。アドラーは人生の悩みは全て人間関係から発生してると看過した。
原始人がサバンナで生きてる頃、人間という種は脆弱で他の動物に襲われることもあったけど、同じぐらいに他の人間に襲われて殺されることも多かった。なので、人間という種は顔見知り以外の人間については全く信用せずに敵視する。
人間が他者への信頼を身につけていくのは、まずは子供の頃に基本的な欲求を両親に満たしてもらうとか、各発達段階において適切な欲求の充足を満たしておくことで最終的には自己への信頼ができるようになると解いているのは、エリクソンの心理社会的発達理論であったか。
幼児の頃から世界に対しての信頼関係ができていれば、「世界というのはそこまでひどいものではない」というポジティブな考え方もできるかもしれないが、適切な信頼関係を築くことができなければ自己不信にも陥る。こういうのに病名をつけるとしたら愛着障害だろう。
適当に論を展開していたら不穏な方向に流れてしまったな。方向修正しようか。今更、40代にもなるおっさんが親のせいでどうこうみたいな情けない論を書くと辟易して自己嫌悪する。
他者論に戻そうか。人間にとって他者というのは信用できないものである。無条件で尽くさねば信頼というのは勝ち取れないものであるし、自分が弱ってコミュニティに貢献できなくなると弾き出されて疎外されるものである。なので各人は他者とコミュニケーションを取るときの戦略というのを過去の経験から身につけていくものだ。
自己と他者というのは究極的には分かり合えないものであるけど、それでも他者を信用してコミュニケーションを取ろうとするのは「勇気」である。
自分が傷つくかもしれない。また、あてが外れて弾き出されるかもしれないけど、それでも相手を信用してアプローチをしようとするのは、自分の狭い箱の中から出て新しい自分を見つけようとする行為である。その場で立ち止まっていたら、いつまでも不安に苛まれ、そしてループする不安の中で自分を信用できなくなる。そういう猜疑心を振り払い、まず自分ができる行動をしてみることが、他者の中にも自分と類似する側面を見出すきっかけになる。
結局まぁ、他者が信用できないとかだから人と話したくないというのは、自分がそうしたいからしてることなんだよね。勇気を出して自分の枠から出るよりも、そこで悶々と自己嫌悪する方が楽であるからそうしてるだけなのだ。アドラーはこれを「目的論」と言う。
自分を変えられるのは自分だけである。ひどい自己嫌悪であったりとか人間不信だとしても、そこにある構造を離れて客観視して、そして見つけた自分がハマってるフレームを壊すのも自分である。ヒントを与えるとするならば、自分がハマり込んでるフレームを作るのも他者であるのなら、そこから外れるためのきっかけを作るのも他者とのコミュニケーションだ。自分が勇気を出して一歩を踏み出すことで、今まで盲信してたフレームが外れることがある。