人生には無駄なことは大いに必要よ。
ガルシア・マルケスの「百年の孤独」がそろそろ読み終わる。休日にカフェやコワーキングスペースにこもって読み耽り、会社にも持っていき始業前や昼休みにちまちま読むというやり方だったけど、なんとか読み終わることができそうね。
ちゃんとした感想は別に書こうかなーとも思うけど、ブログでは書かないかもしれない。なんか大江健三郎の「同時代ゲーム」とか井上ひさしの「吉里吉里人」とすごくシュチュエーションとかノリが似てるなーと思った。どちらも読んだのは大学生ぐらいの頃とか相当前で、孤立した村の話という事ぐらいの共通点しか思いつかないけど、個人的にシチュエーションがすごい近いと思う。
こういう、ちゃんとした文学をしっかりと読書したのは久々かもしれない。や、でもオーディオブックで「カラマーゾフの兄弟」なんかも読んだりしてるので、僕もしっかり文学おじさんしてるのかもしれない。最近は並行で読んでいた本としては、渋沢栄一の「論語と算盤」とセネカの「生の短さについて」だったので、わりかし説教くさい本ばかり読んでたので、百年の孤独はエンタメ作品として楽しむことができた。
なんじゃろ、最近は色々と人生でやなことばっかりあって、生きることの意味を見失いがちという感じだったから、だから文学に救いを求めてる側面もあるなーと思う。僕が読書に求めているものとしては、色々と仕事や趣味の技量を伸ばすための勉強の側面と、息抜きで意識をファンタジー世界に飛ばすための娯楽的な側面があると思う。
僕はどうも昔から人生の苦境に陥った時は色々と文学作品を読んでる傾向がある。大学生の頃も人間嫌いを拗らせて、ろくに友達もおらず精神的にも滅入った状態で大学通っていた。その時はアルバイトのサーバー管理室で、漱石とか太宰とか芥川ばっかり読んでいた。
この頃は聴いてる音楽も、ワーグナーとかマーラーみたいなクラッシックの交響曲ばっかり聴いていたし、相当に拗らせていたと思う。そのリバウンドで新社会人の頃はニコニコ動画やラノベにハマりまくりオタ道まっしぐらなのだが、どっちの方面もはまり込んだのは人生の中で良い経験になってるなと思う。
クラッシックや純文学のような高尚な趣味が良くて、ゲームやアニメイラストのような俗な趣味は劣るものという認識は、難しい難解なものを理解できるほうがえらくて、わかりやすいものは低俗という雑な認識であると思う。特に、最近のアニメなどのコンテンツで表現されてる感情表現というのは、古典文学なんかよりもぶっちぎりで難しい人間的な感情を繊細に描き出しているというのも良くある。「葬送のフリーレン」を完走して、長寿で残されたものたちが後の世代に何を伝えていくのかという主題を味わってみて、こりゃすげーなと思ったもん。
なんで人は小説なんかを読むんだろう? と考えてみる。現代のようにより仕事や趣味の効率性を求めたりする風潮の中では、小説を読んだりするのも、高尚な読書感想文をSNSで周りに自慢するためだったりとかで、マウントをするための道具として使われている。
別に僕はそれの是非は問おうとも思わん。目的はともかく、それで読んでみた小説で意外な気づきがあって人生観が変わったりすることも良くあることだ。漱石でもよく描かれてることだけど、あの時代の書生たちも周りに自分を大きく見せびらかすために難しい学問を頑張って勉強してたりするし、ある年齢まではそういう難しいものを知っていると見せびらかそうと精神的に背伸びをすることも成長につながることがある。
しっかし、最近の若者のコンテンツの摂取の目的というのが、SNSで自慢をするために映画や音楽まで倍速再生で聞いてそのあらすじだけで語り合うというのは、あんまり頂けない。単純に「時間の使い方としてもったいない」のである。
僕が小説を読んだり映画を見たりするのは趣味で物語に浸るためのものなのだけど、その後にSNSやブログで感想を書くこともあれば書かないこともある。できれば書いたほうが記憶にも定着していいんだろなー、とは思うけど、その行動を他人に見せるためにSNSでシェアするまではセットでは考えていない。
そういう「注目されないといけない」とか「利益にならないといけない」というような、効率性や利益ばかりを追う精神性と、物語をじっくりと読んで自分の精神を異世界に飛ばすことの働きとしては、目指してる方向性が真逆だと思うのだ。
漱石の「草枕」の中でもよく描かれている思想かなと思うんだけど、物事を多角的にじっくりと観察したりとか、人生を余裕を持って傍観者的に道草を食いながら生きる態度というのは重要だと思うんである。僕はこれは河合隼雄先生の「こころの処方箋」で読んだエッセイだったりするけど、ちゃんと無駄なことをしないと人格が歪な成長の仕方をして心が困難に弱くなるのである。
小説を読むというのは意図的に無駄な人生経験をすることであると思う。物語の中に出てくるキャラクターは、非日常な経験を通じて色々な感情を発露して、そしてさまざまな結末を迎える。それらの与太話をしっかりと自分ごととして擬似体験してみることで、人間はさまざまな側面が鍛えられる。現代は効率ばかりが重んじられる社会ではあるが、そいういうのは歪だよな。