超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。


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人生の目的とはなんなのか考える。

人生の目的とはなんなのか考える。


さて、この記事が投稿されているということは僕は旅行にでかけているであろう。のんびりと温泉地で楽しんでるはずなのでブログはお休みの予定だ。適当に思いつきの由無し事をブログ休みの記事として語らせてもらうよ。


と言いつつ、この記事を書いているのは4月30日の21時ごろなのだけど、なんとなく人生の意味について考えてしまった。最近自分のマイブームでそういうムーブメントが来てしまってる。どうにも僕は成功者とかにはなれないし、世間一般的に考えても普通の生き方からはドロップアウトしてしまってて、普通の人生を送っている人たちが考える「幸せ」という概念を獲得するにはあまりにも遠すぎる位置にいるなと感じているのである。


そんな「幸せ」とはかけ離れた生き方をしている自分を肯定するために、いろんな書籍を読み漁っている。仏教の中でも現実主義的な考え方をする禅僧の書籍などは割とがっちりとハマる。普段の僕の言動をみている熱心な読者諸氏であるならば、僕はわりかしポジティブな考え方をしようと頑張ってることを知ってるかもしれないけど、僕は人生に関しては極めてクソゲーだと思ってる。


このような増田がいた。


anond.hatelabo.jp


露悪趣味的な考え方を書いているし、随分と極端な考え方でもあるけども、僕も言ってることは分からなくはない。


人間というのは別に望んでこの世界に生まれてきた訳ではないと思う。赤ん坊にしてもそうなのだけど、完璧に受動的な存在で、誰かが面倒を見てくれなければすぐに死んでしまうぐらい脆弱な存在だ。なんとか自我を持つぐらいに成長したとしても壮絶な競争社会に巻き込まれ、社会の中では運に恵まれた一部の人間以外はどうでもいい存在としてなんとなく人生の時間を消費してままならぬまま死んでゆく。


インターネットが発達した情報社会において可視化されたものとしては、みんな承認欲求を満たすために個人の意見だとか個人が達成した成果だとかを世の中に拡声器を使って宣伝したがってるということぐらいだ。なんとなく受動的にSNSから発信されてくる情報を見ていると、インフルエンサーだとか、またそれ以外の一般人であれど、キラキラした楽しそうな生活だとか何かしら成功した人生だとかが流れてくる。これはまぁ、SNSに始まったことではないかもしれないけどな。昔のTVとかでも視聴者の消費欲求を高めるために高価な消費財の宣伝だとか成功者を称える番組とかはたくさんあったであろう。


メディアとかインターネットから伝わってくる何者かになれた成功者の人生と比較して自分自身の人生なんぞを見てみると、自分自身はどうにもイケてない。世間の人から認められるような成功もしてないし、それに向かって努力するような根気もない。そこんところでフラストレーションを溜めた何者にもなれなかった人はストレスを溜め始める。それでどういう反応を見せるかは人それぞれなのだけど、ある人は自分も成功者になれるように努力をし始める。ある人は成功者の価値を毀損するために有名人のアラ探しを始める。まぁそこんところの反応は人それぞれだろう。


そんな中でも個人的に一番生きづらそうだなーと思うのが、ルサンチマンの攻撃の方向性が自分自身の存在価値や自尊心などに向いちゃったタイプだ。世の中の成功者と比べて自分はクソだとかそんな感情をこじらせて、希死念慮なんぞまで行っちゃったタイプである。成功者と自分を比較してルサンチマンを溜め込んで、それがまったく関係ない外部の方に向かっちゃった「無敵の人」タイプの犯罪もある。どっちにせよこの種の「何者」にもなれない問題は人の命とか社会の安全にまで絡んでくる問題なのである。


じゃぁどうすんべかなー?と考えたときに、僕がいろんな書籍などを読み漁ってたどり着いたところは、自分の内的にある幸福の価値基準をきちっと確立しておくことが一番安定するんだろうなーと思った。


なんかさ、人と比べて上に立とうとか、人を出し抜いて成功しようだとか、誰それの意見とくらべて自分の考え方が優れているとか、そういう価値観競争からさっさと降りちまうのが心を穏やかにしてほんのりと幸せ感を感じるコツである。何をすれば自分が幸せに感じるのか?それをきちっとリストアップしておいて、できるだけ数を増やしていくのがよろしいであろう。こりゃまぁ村上春樹の言ってる「小確幸」という考え方だけど、たとえば冬の寒い日にコンビニで肉まんを買って食べると幸せとか、休みの日にのんびりとカフェで小説でも読んでるのが幸せとか、そういう「小さくて確実な幸せ」のリスト伸ばしていくのが人生のコツである。


なんかさ、僕も新卒ぐらいんときは成功者になるために色々と努力をしてたのよ。毎日自己啓発本を一冊読みまくるとかそういう努力ばっかりしてきた訳よ。その結果がブラック企業で使い潰されて統合失調症患って障がい者になって、社会の成功のレールからは強制ドロップアウト。私生活もいろんな苦労ごとばっかりでままならない。実際、自分の人生って苦しいばっかりでこれから先も「何者」かになれる可能性は0に等しいのだけど、別に人生に絶望はしないのだよな。


ブログ書いたりするのもそうなのだけど、僕の日常生活というのはいちいち他人と自分を比較して苦悩する必要がないぐらいやるべき事って多いのだよ。僕の人生の価値基準の中で重要なものだと置いてることって、しっかりと丁寧に日常生活を暮らして、その中で見えてくる光景を丁寧に味わうことだったりするのよね。どの道、人生ってのはクソゲーなのよ。だけど、いちいちそういう人生の苦しいところばっか考えて嘆いていても苦しいばっかりでなんにも楽しくない。


なんとなく受動的にこの世に生まれてしまった自分というのは、自分自身が考えているほど素晴らしい価値の存在ではない。そもそも自分で望んで生まれてきた訳でもないのに意志の力で努力して人の上に立てというのも、ずいぶんと勝手な話だ。なんかさ、人生に苦しんでる人って、心の端では自分は世界の中でも主人公で、自分はちやほやされる価値があると信じてるんだよ。なんとなくで生まれてきた僕らというのは、なんとなく生きて、なんとなくで死んでいくモブの人生だよ。そこん中で具体的に自分が確実に楽しくなれる方法を集めておいて、つまらん憂き世を楽しく暮らす。これは刹那的な生き方であろうか? いちいち一生掛けてもどうにもならない壁にぶち当たって苦悩するシーシュポスみたいな生き方よりは、重荷をおろして楽観的に人生を俯瞰する行き方の方が遠くまで行けると思いますけどね。


結局、2800字も書いちゃってるんだもんなぁ。ブログ休みとはなんだったのか。

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