超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。


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敗者の人生を如何に生き抜くか。

敗者の人生を如何に生き抜くか。


明日から旅行に行ってきます。ブログはひとまず書こうかと思うけども、メンタルの具合があんまり良くなく、またしてもちゃんと書けるか微妙な状態。ひとまず思いつきを2000字ばかし殴り書くけど、旅行期間中のストック記事を後1記事まだ完成させることができてない。残りひと記事については帰りの新幹線の中でスマホでぼちぼちしつつ仕上げようかな?


別にブログ休みでも良いんだけどさ、時間があるのにブログをサボるのは嫌悪感があるよね。僕にとって毎日2000字のブログを書くということは、思考の老廃物を排出するような役割を果たしていて、何も書かないと何か物足りない感じで寝覚めが悪い。ブログを書くときは思考に浮かんできたどうでもいい事をすくい取って、それを文章にまとめていくという感覚。僕の無意識がそこまで複雑な構造をしているのかは定かではないけども、少なくとも文章を書くことを習慣としている人間であるかとは思う。今日も思考がもやもやして落ち着かないので、ブログはフリーライティングでまとまりのない文章を殴り書いて終わらせてもらうよ。


今日は病院受診の日で主治医と適当に話してきたのだけど、ここ3ヶ月ぐらいはずっと調子が悪い。なんか、このメンタルの調子が悪いのは中年期の危機にでも入りつつあるのかな?と考えた。


プライベートのことをダラダラと加工もせずに垂れ流すのは好みじゃないから、具体的に何を悩んでいるのかはブログでは書かない。赤裸々すぎる文章というのは読んだ人を辟易させるところもあるし、僕自身がそれを書き出すことで傷ついてしまう事もありうるので、無加工で感情を吐き出すことはしない。僕の信念の一つに「型にはまらない自意識は見るに堪えない」という風な考え方もある。人間関係はお互い様というところもあるので、自分が抱えている本心を誰かに共有してもらって癒されるという事もあるかと思う。僕がそれをやるとしたらある程度の「型」にはめて、心の痛みそのものを無加工でほっぽりだして、普通の人が受け入れがたいような微妙なコンプレックスをそのまま受け入れて欲しいと望むことはしないと思う。


なんかさ、最近は自分の人生を振り返って考えることが増えた。そろそろ人生80年だとすると人生の折り返し地点に来たのだけど、自分の人生というのは本当に何も残さないし残せないなと感じている。ひとまず生きるだけ生きてこの地点までやってきたけども、人生の意味という風に考えてみたときに「自分には本当になにもないな」と感じた。


別に人間の人生の価値というのは、誰かに認められる実績を残すようなことが全てだとは思わんのですよ。人間が生まれてくることだって、自分で望んだところに生まれて望んだ親を選んで生まれるだとかそういう事はできないし、人生で何をできるかは運の要素が多分に含まれる。そういう不確定な要素に振り回されつつもしっかりと生き抜いて、人生をより良く生きていこうと意思を持つことこそが尊いことであると思うんですよ。


「人生はクソゲー」だの反出生主義だの世の中を儚んで罵詈雑言を言っている人もいる。あれは自分にしか興味がない人たちが自分の心痛に耐えられずに過激な言葉で心中を表現しているだけなのだと思っている。ネットを彷徨っていると、それらの言葉を吐きつつ過激な言葉でオーバーに嘆き悲しんでいる人達がいる。僕はそういうものを横目に見つつ、他山の石として自分の生き方を洗練させなければならないなと思うのである。


そもそも人生に明確な意味なんてないものなのだと思う。ちゃんと勉強をして良い大学を出て、それから終身雇用の会社に入ってしっかりと勤め上げたりとか、ほどほどのところで子供を作って家を立てて家族を作るのが社会から認められた幸せな人生の送り方であるけど、そこから外れたところにもちゃんと人生がある。僕は社会のレールから外れた所で人生を生きているけど、それでも全うに生きてやるべきことをやって死にたいと思っている。


なんかさ、ほぼ日の手帳の中にこのような言葉があった。

いかに負けるか、負けたあとどう振る舞うか。毅然と美しく思い出を紡ぐことができるか。
ここにわたしは、清少納言の「覚悟」を感じています。おそらくは勝つことよりも負けることが多いであろう、わたしたちの人生にとって、力を与えてくれると思うのです。
手痛い敗北を喫した時に、何を話すのか、どう振る舞うのか、何を遺すのか。
その姿勢を、歴史の勝者ならざる「枕草子」は教えてくれる気がするのです。

たらればさんが「なぜいま「枕草子」なの?」の中で


まぁ、間違いなく僕の人生というのは世間一般の道からは外れたアウトサイダーであるかとは思うんですよ。手痛い敗北を喫したあとで、世の中の光景にどんな風な質感を見て、それをどのような言葉で表現しながら生きていくか。それは僕がちゃんと生きてちゃんと死ぬためには、目の前で起こることを直視して自分の手で言葉にしていかないとならないだろう。そういう存在理由で生きてみるというのも暫定的には悪くないかもしれない。

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