超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。


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僕がやろうとしてるのは兼好法師から続いている忠実な随筆だ。

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今週は5連勤なのね。まだ週は火曜日、始まったばかり。


僕は去年の10月に障がい者雇用のオープンで就職したのね。仕事に関しては良い職場を見つけたようだ。ムリなことは言われないし、自分の能力を使ってこなせるレベルの仕事が割り振られる。webプログラマをやっているんだけど、僕の今までのキャリアというのはずっとwebプログラマなのでこの業種以外はできない。


去年、就労移行支援で就職活動していた時期は色んな仕事をやろうとしていたのだ。家電量販店の販売員とか雑誌編集部の取材要員とかそういう仕事があった。まぁだけど、僕はソーシャルスキルを求められる様な仕事は無理だな。人見知り激しいという訳ではないけど、人と話すのはそれほど好きではない。仕事などでしゃべらないといけない時は必要に応じて求められた役割を果すけど、しゃべらないで良いならずっと無言でも苦痛ではない。


人とコミュニケーションを取る事に関しては専門的な勉強もしてきている。大学の時は心理カウンセリング専攻だったのよ。だけど、実際にカウンセラーになるための訓練をして気がついたことは、表面上は福祉を勉強して人の役に立ちたいと思っているが、根本にある深層心理がそれほど健全なモチベーションでない事だった。カウンセラーなんてものをやるためには、人間に対する強固な信頼が必要なんだ。クライアントに対して共感して正のレスポンスを返す為には、クライアントの人生を認めて自分の存在を賭けて回答しないといけない。本当に深いつながりのコミュニケーションに至った時、僕が相手に対して素直な感情で対話ができるかというと、できないんだよな。


このブログで僕の書く文章を読んでいるならまぁ分かるだろうけど、色んな事を書くにしてもまっすぐな表現を使わない。これはレトリックでやろうとしている訳ではなくて、直球の素直な表現というのが怖くてできないからなんだよね。思ったことを素直に書くことを恐れている。感情をそのままぶちまけるという事をできない。


僕が文章を書く時に心に留めている言葉は「型にはまらない自意識は見るに堪えない」という事だ。生の自意識の衝動を、文章技法なりのフレームワークで成形加工して、人の鑑賞に耐える作品にすることが当たり前だと思っている。生の感情を伝える程の文才と技量は持っていないけど、持っていたとしても一定の枠組みの中で箱庭のようにその存在の気配だけ表現するだろう。


これは自分の深層がそれほど人目に晒せる程、強度があるものではないからというのに気づいてしまったんだよね。根本にある深層が大して深くまで根付いていない。無意識の浅い部分しか気付けていない。表層的で教条主義。僕は所詮、凡人でしか無いってことなんだよな。


作家だけに限らず、ブロガーの中でも無自覚に内面を掘り下げて深い領域までたどり着いてしまう人が居たりするんだ。文章に限らず自己表現で目指すものというのは深く掘り下げる事だと思っている。ブログというメディアは比較すると皮相的だと思われがちだが、毎日文章を綴っていくということは予想以上に書き手をとんでもない所に連れて行ってくれる。


まぁ、これが僕が見つけた自己表現方法なんだが、昔から伝わってきたエッセイの技法でもある。兼好法師徒然草の序文で次のように書いている。

つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

特にやることもないままに、一日中硯にむかって、心に浮かんでは消えていく何ということも無いことを、なんとなく書き付けると、あやしくも狂おしい感じだ。


roudokus.com


兼好法師がやっていることは雑記ブロガーみたいなことなんだと思う。自分の個人的で稚拙な妄想を衆目に晒して、恥ずかしいけど気持ちいいー、みたいな。ブログに限らずエッセイというものは、作者の個人的な妄想で世の中のあらゆるものを区分していくことだと思う。エッセイストは書くならばそれなりの文章表現などを使って読み応えのあるものを書くんだけど、別に思想自体は素人である雑記ブロガーだろうが変わらんだろう。世の中の森羅万象に対して造詣が深くない作者がいっちょがみをかます行為ってのがエッセイの基本だ。


僕の気がついた表現方法ってのは「毎日書くこと」である。このブログで毎日綴られる文章は基本ノープランで即興で書かれたものだ。これが兼好法師から続く日記文学に一番忠実でスタンダードな方法だったのよ。僕が表現したいことってのは一つのエントリーじゃなくて、毎日の更新で表現されている。日常のどうでもいいニュースを書きながら内面を掘り下げていっているのである。問題としては作品にピリオドが打てない。これは形が決まった一つの作品として発表できないということだ。人生はどこまでも続いてく物語。ミヒャエル・エンデじゃあるまいし。

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