僕はひたすら表現者であろうと思う。
なーんか、なーんか、再びメンタル不調状態に陥りまして、またしてもブログを書く理由を見失ったのでございます。2~3ヶ月に一度ぐらい陥るなこの状態。
症状としては、ブログを読んでも誰も読まれてない気がしてブログ自体を書く気力を失ってしまう。毎日更新が単なるルーチンだと感じてしまい、ブログの更新が作業だと悩み込んでしまう。これ、ある程度の量のブログの毎日更新が習慣になったあとからしつこく悩まされてる症状でして、別にブログの更新が止まるほどじゃないけど、物を書いててもつまらなくて仕方ない。「こんなん書いてもクソじゃー!」と自己嫌悪しながら無理やり更新し続けて頭が悩み疲れるまでひたすら更新し続けるしかなかった。
今回はこんな感じ。
まぁ、ブログはGoogleバブルがはじけて来たので、これからは書くのが好きな人だけの落ち着いた文化になるんじゃないかな?と期待してる。
— ゆきにー@雑文書き (@yuki_20211) 2019年12月9日
情報の流れが早い所に居たいからYouTubeのこれからの文化も面白そうだけどさ。
文章上手くなりたいよな。文章だけで読ます小説とか書きたいよな。
— ゆきにー@雑文書き (@yuki_20211) 2019年12月9日
なーんか、目的も無くダラダラと書いてるとさして上達しないっぽいんだよなぁ。
ブログの毎日更新って小説の文章の練習のために始めた習慣だったんですけど、ブログの毎日更新は続いたけど文章の上達は全然感じられない状態が続いたのです。で、目的と手段を混同しちゃってるよなーというのは常に頭の片隅に残ってまして、ブログを更新するときにその負い目を感じてしまうのです。
ブログを書く人というのは人それぞれ目的があるのですけど、金稼ぎたいとかPV増やしたいみたいな人たちは数字でモチベーションが乱高下する。経験上、この手の人達は早晩更新が止まる。実際、Googleのコアアップデートでブログで稼ぐ系のユーザはバブル崩壊で存亡の危機に陥ってます。
ま、別にそれは良いんですけどね。お手軽な金稼ぎのために素人が考えた薄いお役立ち情報をネットに撒き散らされる方が検索ノイズが増えて迷惑な話だったんですよ。よっぽど調査もじっくりと行ってユーザのためにクオリティの高い情報を提供しようとするのではなく、Googleの検索エンジンをSEOでハックする方法で裏技的に人をかき集めて機械的なブログで稼ごうみたいな連中ばっかりだったんですもん。あの人達は宝くじでも当たればブログを書き続けたりはしなかったでしょう。別に文章書くのも好きそうじゃなかったし。アフィリエイターはきちんと本気で研究してユーザのために考えて有益なコンテンツを作れる人だけ残ればいいんですよ。googleのアナウンスもそのような事を言ってるし。
だけどこうやって他罰的に他人の難癖あげつらってますけど、僕も毎日更新で2000字書くのがルーチンってだけで、機械的に文章を書いているのは大して変わんねーなと思う。僕のブログ更新のモチベーションは毎日更新で増えていく更新数が理由としては結構大きい。現状でも1100日超えてるけど、目標としては老年期になって書けなくなるまで毎日更新を目標にしている。僕が目指しているのは20年以上ほぼ日でエッセイの毎日更新を続けている糸井重里みたいなポジションで、糸井さんと比べてクオリティは兎も角毎日更新だけは辞めずに続けたいと思ってるのである。
とはいえまぁ、僕は文字書きだし、文章の持つ神秘性を信仰している人間でもあります。なんで、文章を書くべき内面的な理由も自分のアイデンティティとして必要なんですよ。ちょっと、上記のツイートしたときにリプでやり取りしたんだけど、ドクダミ淑子 (id:dokudamiyoshiko)さんのところからこういうエントリーを頂きました。
なるほど、自分の内面のモチベーションを忘れるなということかと膝を打ちました。ブログを書くのが完璧なルーチンになってしまうと、何のために書くのかというのを忘れてしまうんですよ。糸井重里みたいに20年はブログ継続するというのも目標だけど、何を書くのか志がないと書くものがなあなあになって何でもありになる。僕の文章を書く理由を再認識しないといけない。
僕が文章を書く理由は「表現者であれ」というのがコアになってます。
表現者というのは、社会的に評価された人だけを指すのではないというのは僕の持論だ。表現したい内面の真理に忠実に生きて、あらゆる手段で表現し続けた人は全て表現者だ。手段はイラスト、小説、プログラミングでもブログでも構わない。何かを書き記して、傷跡を残すことに意味がある。無論、それが世間に認められる事は幸福ではあるが絶対必要かといわれたらそうではない。無名で死んでいった表現者達にも意味はある。
だからヘンリー・ダーガーにも共感するのだ。内面の物語だけを人生の拠り所として、それを表現することだけに尽くした人生だった。彼は幸福とは程遠い生活を送っていた様だが、多分、その人生は満たされたものだった想像できる。物語を表現するというのはそれだけで幸せな事なのだ。誰にも読まれない物語でも自分自身で読んでいて楽しい。書いた作品を一番熱心に読むのは自分自身なのだ。
だから僕は偉そうに言うよ。幸せになりたかったら表現者たれ。手を動かして傷跡を刻め。無名の作者でも誰かに辿り着くことが出来る可能性を捨ててはいけない。技術を学び、バリエーションを増やし、鮮やかに墨痕を残せ。見たものを楽しませる作品作りを忘れるな。でも、自分を捨ててはいけない。魂がこもっていない作品に意味はない。外形だけ美しい作品をなぞっても、自分の我が入っていなければそれは表現ではない。
僕が表現する理由は、自分の内面を表現してわずかでもいいから誰かに理解してもらうことだ。別に万人受けする必要は全然感じていないが、偶然でもたどり着いた誰か一人にでも深く印象を刻み込む文章を書くことが目的だ。なので、ひたすら自分の内面に忠実に、なおかつ読んだ人に刺さる様に一般的なスタイルも無視せずに独りよがりにならない文章が目標なのだ。
僕がブログで書いていきたい文章のベースとはこういう所だったと再認識した。最後はこういう表現系のエントリーではいつも使ってる引用で締めよう。
表現とは、誰かに何かを伝えるためにあります。
つまり、どんなに伝えたい事があっても誰も読まない記事は表現ではありません
ですがどんなに多くの人に読まれても、そこに伝えたい事が無ければ表現ではありませんブラックジャックによろしく 13巻 38ページ