超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。

ビジュアル思考も身につけたい。

ビジュアル思考も身につけたい。


今日は沖縄は雨。日曜の朝、湿った空気の中で目が覚めて、なんとなく「整ったな」という感覚がある。昨日はわりとやれた。カフェに行って、お絵描きの練習をして、胸郭と骨格の流れをもう一度やり直した。立体で掴めていない感覚がずっと引っかかっていたから、そこを重点的にほぐしていく作業だ。




結論から言えば、僕はもう少し「見方」を増やしたほうがいい。


理由は単純で、どうも理解の仕方が偏っているからだ。絵の練習をしていても、最終的には言語に落とそうとしている自分がいる。「ここはこういう構造で」「この筋肉はこう走っていて」と、全部文字列で処理しようとする。もちろんそれで助かってきた部分もある。でも、直感的に一発で掴む感覚は、まだ弱い。


昨日描いた絵はChatGPTに投げて意見をもらった。完璧ではないが、ある程度は理解できていると言われた。悪くない。だけど、そこでふと気づいた。僕はライフログは山ほどつけているのに、学習ログはほとんど残していない。Obsidianにメモは増えていくけど、書いて終わり。あとから読み返して再利用することは少ない。書きっぱなしのノートが、静かに積もっていくだけだ。


それならいっそ、学習ログをちゃんと作ればいい。どう理解し、どこでつまずき、何に気づいたのか。あとから辿れる形で残しておく。それだけでも、思考は少し立体になるはずだ。


それと同時に、iPadを買ったことも思い出す。新しいメモの取り方を試せる環境がある。無限キャンバスにマインドマップを広げて、思いついたことを片っ端から視覚化する。文字だけでなく、矢印や図やラフなスケッチも混ぜる。そういうメモがあってもいい。


僕は落書きが苦手だ。これはちょっとしたコンプレックスで、サササッと描く線が出てこない。どうしても構えてしまう。きっちりした形にしようとする。でも、ビジュアル思考ってたぶん、きっちりしていないところに価値がある。思考の途中経過を、そのままキャンバスに置いていくようなやり方だ。


言語に偏りすぎた理解から、少しだけ距離を取る。左脳一本足打法から、もう一本足を増やすイメージだ。目で見て、ぱっと全体を掴む。細部の言語化はそのあとでいい。視覚は情報量が多い。抜け落ちていたアナログなニュアンスや、言葉にする前の違和感を拾ってくれるかもしれない。


今からそんな能力を伸ばしてどうなるのか、という声もある。40代にもなって、新しい切り口を増やして何になるのか、と。でも、技術を身につけるというのは、新しい世界の入口を増やすことだ。年齢はあまり関係ない。見方が一つ増えれば、それだけで世界は別物になる。


今まで言語でしか理解できなかったことが、図にした瞬間に腑に落ちるかもしれない。あるいは逆に、曖昧だった理解が、絵にしようとして破綻するかもしれない。そのどちらも学びだ。思考の切り口を増やす練習は、コスパのいい投資だと思う。


人間は視覚の生き物だ。言葉で延々と説明するより、図一枚のほうが早いこともある。だったら、そこを鍛えない理由はない。絵の勉強も、学習ログも、ビジュアルメモも、全部つながっている気がする。


結局のところ、満足しないことが鍵なんだと思う。もう分かっている、これで十分だ、と言った瞬間に世界は止まる。そこからは、持っているカードだけで回す生活になる。それはそれで安定はする。でも、拡張はしない。


不満はしんどい。でも、その不満があるから新しい能力を探す。不足を自覚するから、道具を探す。悲観して閉じこもるんじゃなくて、目の前の問題をどう切るかを考える。周りを見回して、使えそうなものを拾っていく。その繰り返しの中で、世界の見え方は少しずつ変わる。


だから僕は、もう少し見方を増やしてみようと思う。言葉の森の中に、図という別の地図を持ち込む。無限キャンバスに、未完成の思考をばらまいてみる。そこからどんな景色が立ち上がるのか。


雨の沖縄の朝、そんなことを考えている。

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