
エッセイとブログの違いはなんぞやと考えてしまう。
体調はなかなか良い。先週半ばあたりで葬儀などが入ってしまい崩れた調子を、週末によく寝てちょっとジムでウォーキングしたり、車の洗車を頑張ったりで回復。趣味のことはやることができなかったけど、気分は悪くないのでこれでよし。
ちょっと最近は気の迷いからか、坂口安吾の「堕落論」や三木清の「人生論ノート」なんてものを読んでいる。
こういうプロの文豪や哲学者のエッセイを読んでいると、「エッセイとはなんぞや?」という問いがむくむくと湧いてきた。僕がブログで書いてる文章も、日記以上エッセイ未満の代物を書いてるつもりなのだが、プロの文章と比較してしまうと月とスッポンである。
なんというか、書いてる文章に「生きる意味とは」とか「人間とは何か?」的なテーマを込められたら素晴らしいじゃないっすか? なんとなく僕の書いてる文章というのは変なおっさんの日常からダラダラと個人的な悩みが語られていくばかりで、そこに読んだ人を感心させる要素は薄いように思う。
書いてる文章にはその人の考え方がそのまま出てくるものだと思う。僕の文章に厚みが足りないのは、やっぱり普段からの思考の量や質の違いであり、そこに出てくる彼我の差というのは、見上げるぐらいしかできないぐらい高い壁である。
んー、でもよくよく考えると、僕が文章を書くモチベーションというのは「書けるから書く」というようなよく分からないものだ。坂口安吾や三木清のようなプロの人たちの文章というのは、おそらく、頭の中で溢れてる言葉を書き留めないと死んでしまうぐらい思い詰めて書かれているのだろうなと思う。
実存的な問いを、それこそ気が変になる程考えられるほどの思考力は、僕にはない。そういう「生きるとは何か?」という問いを真剣に考えようとすると、気分が悪くなってきて冗談に逃げてしまう。真相にズバッと切り込むのではなく、その周辺部分をうろちょろしながら変な顔をしながら笑わせようとしてるピエロのようなものだ。
そんな腰が引けていたのなら、そりゃ文章で人を感動させることもできないだろう。しかしまぁ、生きてる人類が全てが全て実存的な問いに頭を悩ませなければならないかと言えば、そうではない。
特にまぁ、ブログという媒体で書かれる文章というのは、フォーマルとインフォーマルの間ぐらいの文章じゃないかなーと思うんである。書籍ほどは硬い文章は求められてないけど、SNSのような使い捨ての言葉でもない。それなりに内的な個人的なことをテーマにしつつも、そこで社会性とか学問的なものについても語っても許されるような場所だ。
おそらく、僕が書いてる文章というのはエッセイの文章とは違うブログの文章なのだ。上述したプロたちの文章とはまた違うステージで書いてる文章なのだから、それらと比較して引け目を感じる必要もないのだと思う。しかしまぁ、同じ文章で表現される種類のことなんだから、虎とライオンぐらいは近い種族ではないかと思うんである。
書いてる文章で、読んだ人に生き方とか考えさせられるといいなと思うよね。やっぱり文章表現というのは基本的に含まれてるテーマで勝負するものである。読んだ人の暇つぶし程度にしかならないブログの文章であれど、そこに作者の生き様なんかが含まれていて考えさせられるのなら上々だろう。
文章を書く態度というのがなあなあになってるのではないか? というのは自重したいところだ。日々の書いてる文章というのは2000字を1時間で書くというノルマで書かれたものであり、それは書くことの練習ではあるけど、それ自体が目的になっちゃってるところがある。
日々のブログで書くことに何かしらのテーマを持たせるというのは、基本的ではあるけどものすごく難しいことだ。そういうことができる人っているんだろうか? 毎日更新で毎日意味がある文章が書ける人というのは、なんらかの神技的な計画性を持ってる人だと思う。
一応、僕も書いてる文章には何かしらのテーマは持たせようとしてる。しかし、それは書いてる途中での思いつき程度のものであり、しっかりと普段から考え抜かれた強度のあるテーマではない。当然ではあるが、そんな腰が据わってない態度ではちゃんとスパッと切れる文章にはならないのである。
書籍のエッセイではできなくて、ブログならばできる文章表現ってなんだろうなと考えたりするが、時事関係と絡めたりとかある程度のリアルタイム性ではないかなと思う。それプラス、その同時代の空気感であるとかその辺りで読んだ人を共感させるしかないだろう。
結論として、「ブログにはブログならではの文章表現がある」「せめて、インプットもちゃんと毎日行って、ブログならではの表現を磨こう」あたりが妥当な落とし所かなと思う。特に最近は、妙に小難しいことばかり書いて読んだ人に伝わってないなと感じる事も多いからな。「読んだ人が面白いことが第一条件」あたりも加えておこう。