文章を書くために自分の深層を掘り下げたい。
現在読んでいる本は、「書けるひとになる!ー魂の文章術」(ナタリー・ゴールドバーグ著)である。最近の自分の興味は、文章をどうすればうまく書けるのか?とかそういった事なので、それに関する文章読本などを読み漁っている。
その本の中でこのような一文が出てきた。
学びとった力をひとつの形にまとめ、一定の方向に向けなければならないときがある。私は生徒たちに言った。「自分の心の奥にある夢はなんだろう? それについて五分間書いてみて」。多くの人は、心の奥にある夢を知らなかったり、気づかなかったり、避けたりしている。そんな夢について五分か十分書くと、ふだんは意識されずに心の中を漂っているさまざまな思いに触れざるをえなくなる。こうすることで、意識の周縁部にある願望を思考を介さずに書くことができるのだ。
書いたものを読み返し、自分の夢や願望をまじめに考えはじめよう。自分がなにをしたいのか曖昧な場合や、ほんとうにわからない場合には、まず方向が定まるよう、自分の道が現れてくるよう願うことだ。
—『書けるひとになる! ――魂の文章術 (扶桑社BOOKS)』ナタリー・ゴールドバーグ著
これは小説家に限らずブロガーでも、物書きをやっていく上で何を偏愛しているのかはっきりさせてないと、背骨がない軟体生物みたいにぐにゃぐにゃした文章しか書くことが出来ない。自分の中の軸がはっきりしていないと、書こうとしている物事に対してどのような立場で語るのか自分でも分からなくなる。
ここ最近、たらればさんのツイートを引用したが、また再度引用する。
昨日まで「勢いだけで書いて途中で自分の浅い(あまり掘り下げていない)自意識にくじけて根本がフラフラな文章」しか書けない人が、今日になって「何か」を掴んで、突然面白くてぐいぐい読ませる文章を書けるようになった…という事例は、残念だけど見たことがない(どこかにあるかもしれないが)。
— たられば (@tarareba722) 2020年8月31日
僕が毎日文章を書くことというのは、自分の本質を知るために掘り下げる修行みたいな所がある。毎日、その場その場の思い付きであれど、きっちり自分の言葉で一日2000字を書くという習慣をやっていると、過去に書いてきた文章が蓄積される。僕がどういう人物なのか知ろうと思うならば、このブログに投稿された文章を最初から最後まで読み返してみれば莫大な情報が埋蔵されている。これはまぁ、僕がちゃんと過去と向き合えてないのだけど、文章を書きっぱなしで自分の書いたものをしっかりと振り返るという事が出来ていないのが僕の弱点だ。
TwitterなどのSNSをみていて思うのだが、膨大な情報に押し流されてしまって、本当に自分が好きな事が見えなくなっている人が多い時代だ。次から次へとところてんの様に押し出されてくるコンテンツを消化させられる事にリソースを奪われる。本当は必要のない知識ばかりが増えていき、「自分は何者なのか?」という問いに対して、他人が作り出した価値観でしか語る事の出来ない人が多過ぎである。
以前もそれが何なのか考えて、夏目漱石の個人主義を引き合いに出して書いた。
……まぁ、ここまでの物は極端化しすぎといえども、単純化しすぎたアドラー心理学みたいな人生訓を垂れ流している人は結構いるなーという印象である。なんというか、個人主義を尊重しすぎるあまり他人との調和はどうでもいい、みたいな幸福論を吐いている人間は結構いる気がする。
なんというか、個人主義としても深度が浅いのである。私というものの掘り下げが浅くて単純な快不快だけで物事を判断していて経験や歴史に裏付けされた主義主張が無い感じがするのだ。吐いている幸福論に関しても耳目を集めるために過激な言葉を使っていて実際その人の経験と結びついているのかさえ不明な意識高い系の説教みたいなもんを垂れ流しているアカウントは結構ある。
自己本位にとどまらず
自己本位とは、「自分が好いと思った事、好きな事、自分と性の合う事、幸にそこにぶつかって自分の個性を発展させて行く」ことであると述べている。さらに、自己本位にとどまらず、他人の個性をも尊重すること。これが漱石が言う「個人主義」と考えることができる。一方、日本文化に関しては、漱石はたとえそれが外発的なものであっても、「上皮を滑ってゆく」ものであったとしても、そうした開化は避けられないと考えていた。そのなかで個人が生きていくには「個人主義」に徹するしかない、と考えた。
ちょっと横道にそれたが、文章を書くための自己分析というのは、自分の好きな事、綺麗なところも兎も角、嫌なところ、醜い所、嫌いな物、薄暗い場所、そういったものを全部ひっくるめた上で自分を引き受けてしまうことである。なおかつ、そういった自分の本質を理解したうえで文章を書くということは、その総体的な自分の価値観を他人に伝わる様にことばを抽出しないといけないという事である。
表層的な部分でしか考えてない文章は、読んだ人に浅くしか刺さらない。たしか、村上春樹が「職業としての小説家」の中で語っていた事であるが、知識とかテクニックでも他人に刺さる文章を書くことができるが、それは「カミソリの切れ味」である。長い間物書きとして生きていくならば、カミソリからナタ、斧の切れ味に深化させていかないといけない。頭の良さで小説家として生きていくのは10年程度はできるとしても、それから先は別のファクターが必要になる。
頭の切れに代わる、より大ぶりで永続的な資質が必要とされてきます。(中略)「剃刀の切れ味」を「鉈の切れ味」に転換することが求められるのです。そして更には「鉈の切れ味」を「斧の切れ味」へと転換していくことが求められます
- 作者:春樹, 村上
- 発売日: 2016/09/28
- メディア: 文庫
「一体自分が何者なのか?」それを問い続けるのが文章の修行である。皮相な部分で反響している心痛程度に惑わされずに、自分は何者なのかをガンガン掘り下げながら抉りぬくのは、文章を上手くなりたいなら必要な修行みたいですね。