超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。


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旅先で考える宗教の意味や魂のこと。

旅先で考える宗教の意味や魂のこと。


さてー、旅の途中でこのブログを書いてるであるよ。僕は恥ずかしがり屋なのでどこにいくかは明らかにしないけど、まぁ東京経由で新幹線で行けるところであるね。


駅で駅弁を買って食べたであるけど、どうも僕は駅弁の運がないのかなんなのかよく分からないけど、今まで駅弁で値段相応と思うような商品に当たったことがない。なんか、全部1000円オーバーするような弁当ばかりであるけど、ボリューム的にも味的にも近所の弁当屋のの400円の弁当の方が上。東京はすべてが高いなと思いはするけど、これもまた旅情であろう。


大体昨日で旅に関する思いは全部書いてしまったであるしな、それほど書くことが思いつかない。ひとまず3連休は旅先でテキトーにのんびりと過ごす予定である。最近、ストレスもすごかったであるしね。たまにはこんな風に旅にでも出かけてみないとストレスで調子を崩してしまう。


今回は温泉にのんびりと浸かることはできるかな? どうも今回は寺社巡りが主な目的であるゆえ、温泉は主目的ではない。僕はどうも沖縄県民ではあるが、仏教や神道などの日本の宗教に興味があるようである。


沖縄で信仰されてる宗教というのは、仏教や神道などがデファクトスタンダートではない。一般的にはアミニズム的な先祖崇拝を主とした琉球神道が広く普及してる。


これもまた沖縄県民でもそれぞれの家庭によって何を信じてるかの違いというのはあるだろう。どうも沖縄というのはチャンプルー文化というもので、ありがたいものであったり良いと思うものは全部取り込んでしまってチャンプルーにしてしまうというものである。


沖縄の民間信仰ではユタと呼ばれる拝み屋が、なにか先祖供養のことであるとか墓関係のトラブルが起きた時に問題解決にあたるのだけど、このユタたちが使う道具というのも色々とバリュエーションがあるとのことだ。中にはタロットカードを使うユタもいると噂に聞いたことがある。


ユタと呼ばれる職業の人たちは、一般的に生まれ高い人が巫病に掛かることで神様とコミュニケーションが取れるようになり、使命を帯びて人々を助けるために拝みをやってる人である。


このユタになる時の巫病であるけど、現代社会でその状態を分類するのであれば統合失調症である。幻覚を見て橋から飛び降りたりだとか、神様のお告げを聞いて夜な夜なそこら辺を徘徊したりするような状況が、ユタになるための巫病である。これは沖縄のユタに限らず、全世界的に見てもシャーマンのような霊的な役割を果たす人間は、現代医療では統合失調症と分類されてしまうのだろう。


しかし、これは沖縄だけの風土かもしれないが、沖縄では「医者半分、ユタ半分」と呼ばれるような言葉がある。お医者さんがどうにも現代医療で治療する病気というよりは家族の問題であるとか、信仰上の問題であるなと考えた時はそれとなくユタを紹介したりする。また、ユタの方でも見ている人が精神病を患っていて医者の治療が必要であれば精神科やカウンセラーに誘導することがあるとのことだ。


この辺り、両者とも良心的な治療者の場合に限られるであるだろうし、これをまことしやかに沖縄の美談として言う気にもなれないのよね。僕は一度、新興宗教みたいなユタに騙されかけたことがあるし、宗教というのはどうにも現実と適合せずに排外的なものになることが多いのではないかと思う。


かといって、現代医療が完璧で素晴らしいものだと絶賛する気もしないよ。ナノマシンクラスまで科学が進んで、脳の動きを完璧に解明することができたとしても、人間の病というのは根絶することはできないと思う。人間の仕組みというのは、どれだけ脳や体の構造を分解しても知り得ない「魂」の領域というのがある。そこんところの不可知で知り得ないものも含めて人間という存在なのだと思っている。


僕がそういう「魂の領域」を考えたりするときに持ってくる思考実験としては「スワンプマン」あたりを引用してくるのが適切であるかなと思う。


スワンプマンの思考実験とは次のようなものだ。

ある男がハイキングに出かける。道中、この男は不運にも沼のそばで、突然雷に打たれて死んでしまう。その時、もうひとつ別の雷が、すぐそばの沼へと落ちた。なんという偶然か、この落雷は沼の汚泥と化学反応を引き起こし、死んだ男と全く同一、同質形状の生成物を生み出してしまう。

この落雷によって生まれた新しい存在のことを、スワンプマン(沼男)と言う。スワンプマンは原子レベルで、死ぬ直前の男と全く同一の構造を呈しており、見かけも全く同一である。もちろん脳の状態(落雷によって死んだ男の生前の脳の状態)も完全なるコピーであることから、記憶も知識も全く同一であるように見える。沼を後にしたスワンプマンは、死ぬ直前の男の姿でスタスタと街に帰っていく。そして死んだ男がかつて住んでいた部屋のドアを開け、死んだ男の家族に電話をし、死んだ男が読んでいた本の続きを読みふけりながら、眠りにつく。そして翌朝、死んだ男が通っていた職場へと出勤していく。

スワンプマン - Wikipedia


果たしてこの新しく復活した存在とは以前の男と同じか否かと問うのがスワンプマンの思考実験であるが、復活した存在に対して実存的な意味などを問うのは宗教的な思考の手助けがないとできないのではないかと思う。たとえば人間の意識をコンピューター上で再現する技術が開発されて不老不死が実現した時に、その意識の存在意義であるとかアイデンティティのようなものというのは、結局その人の信仰であるとか哲学みたいな形而上学に還元されるのではないかと思うのである。


いくら科学が進歩しようとも、実際に生きてるのは人間であるし、宗教とか哲学の意味というのは人間の存在を定義するということで価値がなくなることはないのではないかな?


なんで旅先でまでこんなややこしい問題を考えているのか分からないけど、今回の旅は仏教関係の取材旅行のところもあるからね。そういう精神世界のあり方を問い直すのも悪くない。

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