超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。

本を読んで疲れた日曜日だった。

本を読んで疲れた日曜日だった。


さて、日曜日である。今日は主に買い物をしてきて午後からは美容室で髪を切ってきた。そして、来週は旧盆の期間に台風が直撃するらしいのでオバーのところにお中元を持っていき仏壇のオジーに挨拶をしてきた。


しかしまー、今日はこれを書いてる今もかなり消耗状態であり、さっさとブログを書き終えたのなら家事をやり湯船に浸かり、適当に瞑想をして寝てしまう。ちとまぁ、積読してあった国際政治関係の本を読んだのだが、これがまーなかなか色々と考えてしまう本であり、それで脳を使いすぎてちょっと不調になってしまった。


なんというか、僕は意識的にこのブログ上では政治的なことを語るのを避けるようになってるのだが、それはよそのSNSとか他の人のブログでも政治を持ち出して他人のことをとやかく言ってる人を見ると「よくないなー」と自分のセンサーがビンビンに反応するのがよくわかるからだ。


今回読んだ本というのは、プーチンや習近平やトランプのような独裁者やポピュリズムがどのような歴史的経緯で生まれてきたのかとか、彼らの立場での主張の正当性を「理解させられてしまう」本なのだけど、これを理解した時さりとて僕はどのように彼らと共存できるのか? と腕を組んで考え込んでしまった。


確かにまー、世の中で生きている人々は、どのような国、どのような立場における人たちでも自分自身の正義があり、そして彼らには彼らの生活がある。そして、それぞれの正義のもとで主張を行い、それが対立して戦争に発展することもある。


2026年の現代において国際社会を見たときに、それでそれぞれの対立を緩和しようという法的な枠組みまで外そうだとかそういう動きも出てきており、もしこれで万人の闘争を制御する法の支配まで失われてしまったら第三次世界大戦にGO!かなーなんてことも考えられる。


休日の暇な時間に積読の読書をしていたら、ちと色々と嫌な現実が見えてきて、「嫌な本を読んでしまったな」と、麦茶を飲みながらチャッピーに愚痴を叩いていたのである。「これでどうしよう?」というのは、僕はここでは答えを書かんよ。色々とネットを見てると、過激な言葉で他人を煽動しようという人たちも見てきたけど、あれは僕の美的感覚と照らし合わせても美しい生き方ではない。


僕自身の好みの生き方としては、そういう疑問が生まれたのなら、自分のローカルのObsidianの中などで色々と考察したジャーナリングなどで思考を整理して、それで生まれた自分なりの答えでもって自分の生活や人生のルールを調整するという感じだ。そして、その生まれた自分なりの答えで他人の生き方を変えることはしない。


なぜなら僕には僕の生き方があるし、他人には他人の生き方があるからだ。他人の生き方のルールというのは、それがどれだけ間違っていても「あー、この人はこう考えるのかー」と、共感はしないけど僕なりに理解する。僕はそういうタイプだ。


ま、なんだろう。基本的な僕の社会に対する態度というのは「自分は自分、他人は他人、されど仲良し」であり、自分の方の問題でも手一杯なのに、わざわざ他人の問題まで抱え込んでそれにとやかく的外れなアドバイスをして迷惑を掛けるのもどうだろう? というような感じなのである。


なんとなくこういうことを考える時に昔読んだ夏目漱石の「私の個人主義」なんぞを思い出してしまうのだが、僕自身が個人主義を主張するのなら、他人の個人としての選択も認めんとならんだろというのが漱石の立場である。


これは僕自身の生き方の哲学にもつながっていくことなのだが、最近の荒れ狂うSNSの状況なんぞを観測しつつ僕は「優雅に生きることが最良の復讐である」というようなスペインの諺に辿り着いた。これは全くの余談であり、僕はただそういう生き方がいいなと考えてるだけだ。


ともかく、今日は考えすぎた。ブログを投稿したらさっさと皿を洗い、湯船に入り瞑想して寝てしまう。