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「哲学と宗教全史」(出口治明著)を読了した。

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「哲学と宗教全史」(出口治明著)を読了した。


出口治明氏の「哲学と宗教全史」を読了したので、今回はそちらの感想を述べて参ろうかと思う。出口治明氏はライフネット生命保険株式会社の創業者であり、今は立命館アジア太平洋大学の学長であるらしい。相当な読書家であるらしく、この「宗教と哲学全史」においても、大量の参考文献を紹介しながらその時代背景を分析して、その思想家が本当は何を考えてその思想を生み出したのかを考え抜いてるような本であった。


「宗教と哲学全史」はギリシア哲学から始まって、現代付近のレヴィストロースの構造主義までを俯瞰的に紹介していくような本でしたね。哲学の入門書というのは、その著者が如何に過去の哲学者の思想などを分析して、自分なりの考え方の味付けをして自身の哲学を披露する書物という傾向が強いと思うのだけど、この本も出口氏のカラーというのが大きくでた本であったと思う。


この本を読んでいて思ったことは、出口氏は本当に大量の本を読んでいるなという事だ。プラトンとかアリストテレスなど、その時代ごとに代表的な人物を紹介していくのだけど、その哲学者の思想を知るために有効な書籍を章の終わりごとに紹介してくれるのである。紹介する本が、単なる原著を読めとかそんな感じではなく、本当に出口氏が自分で読んでみて参考になりそうな本を紹介している感じである。この本で紹介されている哲学者で気になったものがあれば、出口氏の参考文献を自分で読んでみると本当に詳しく知ることができる様になっている。また、その時代の実際の状況の分析が丁寧である。いろんな書籍などを分析して、他の哲学入門書などでは語られてない所まで分析している。まぁ、それだけにこの本で語られている哲学は出口氏の独自研究かもしれず、厳密にその思想を知りたいと思うならば原書に当たる必要性もあるという事だが。


では、実際にこの本の内容に触れて行こうかと思う。僕はまぁ、哲学とかは原書を読もうとして挫折してばっかりで、哲学入門書ばかりを読んでいる哲学ワナビである。知識の面では大体の哲学史の流れぐらいは把握しているけど、本当に厳密な哲学というのはやろうとすると頭が煙を吹く。それでも、哲学による考え方をしっていると、人生の目的とか答えのない問いに対して手がかりを得ることが出来るので、深い生き方をしてみたいという事で哲学の勉強を色々とやっている感じである。


「哲学と宗教全史」は、世界の歴史の流れにおいて哲学と宗教がどのように進歩してきたかを鳥瞰的に見てみるという本でした。で、そういう鳥瞰的な見方をしていると、中世ヨーロッパの暗黒時代を生み出したキリスト教カトリックの融通のきかなさが際立ってるなーという事でしたね。この本では、哲学と宗教の関わり合いで人類の精神世界の進歩を振り返るのですけど、キリスト教カトリック古代ローマ時代で生み出された後から、為政者の民衆支配の道具としての色合いが強く、中世ヨーロッパ時代の1000年近く民衆を支配し続け、文化的科学的な停滞を生み出した。兎に角、キリスト教カトリックは三位一体論争など政治的な権力争いばかりが多く、各教会ではお互いに違う意見であれば相手を破門しあって、東ローマ皇帝などその時の権力者が公会議を開いて正統派を決めてた様である。権力争いの中で古代ギリシャで培われた潤沢な文化資産というのは忘れ去られてしまい、ルネッサンスの時代まで思い出される事は無かった。ちなみに、これもトピックとしては大きいのだけど、中世の暗黒時代にはギリシャ哲学はイスラム教の文化圏で翻訳されて発展していた。ルネッサンスでいろんな文化が復興する時代において、ヨーロッパ文化圏はギリシャ哲学を再発見したのである。


宗教改革を行ったのはルターとカルヴァンですけど、それ以前にスコラ哲学を生み出したトマス・アクィナスの影響というのも見逃せないところである。トマス・アクィナスは、アリストテレスの論理学をキリスト教神学に取り入れてスコラ哲学を生み出した。理性よって考えるアリストテレスの論理学というのは、キリスト教とは相性が悪かったのであるが、トマス・アクィナスはそれを絶妙なバランス感覚で論理学により信仰を強化するスコラ哲学に組み込んだ。しかし、それでも論理学というのは神学の下にあるものとして扱われ、神は特異点であり続けた。


神が人間に対して支配的であり続けた時代だったのだけど、それを乗り越えた人物が「我思う故に我あり」のデカルトである。デカルトは数学や論理学を使った方法的懐疑によりすべてを疑い抜き、その結果、全てを疑っても否定する事が出来ない「自我」を見つけ出した。デカルトはその後、何物にも否定できない自我の存在によって神の存在を定義し始めたのであるが、人間の盲信により全てを支配していた神を乗り越えて、人間が神を理性で認識し始めたのである。


そこからルネッサンスの時代で、大陸合理論やイギリス経験論などにより、人間の認識とか真理とは何かが議論されていったのだけど、それをまとめ上げたのがカントである。カントは人間の自由意志を認め、そこから人間が何を根拠にして考えたり行動したりするのかを定義した。神に縛られていた人間が、人間独自の行動方針を見つけて、自分で人間の在り方を探るという方向性に向かったのである。


そこから一気に時代は飛ぶ。人間はどのようにして生きるのか?というのが哲学と宗教がフィールドとすることだけど、実存哲学のニーチェは「神は死んだ」とはっきりと神を否定してしまった。同時代のマルクスも「宗教は麻薬である」と無神論の思想を提唱した。サルトルは、神無き時代で人間は自由意志により何をすればいいのか戸惑っている事を描き出し、「人間は自由の刑に処されてる」と表現した。


サルトルの哲学は、ヘーゲル弁証法の考え方を受けて、各人が歴史の進歩に参加する必要性を説く「アンガージュマン」という概念にたどり着いたけど、サルトルの友人の人類学者、構造主義のレヴィストロースは「悲しき熱帯」によりその考え方を明確に否定する。人類の思考パターンというのは生存している文化圏の構造に支配されており、ヨーロッパの文化圏のみで考えられたアンガージュマンなど意味はない事を明確にした。人間を支配しているのはその文化の構造であり、その構造の中で人類は神や実存や真理などの絶対的な価値を発見することを明らかにしたのである。文化の構造はいろんな文化圏で異なっており、それぞれの文化圏で絶対的な価値を見出してしまうのだが、それらの価値は相対的で、文化が異なるのであれば絶対の真理はないのだ。


僕が語ったのは西洋哲学の中だけなんだけど、この本では仏教やイスラム教などの文化圏での宗教と哲学の進歩も語ってるんですね。やっぱりそれぞれ世界各国のいろんな所で独自の真理が発見されて、その中でどれが絶対正しいものはこれと決めることはできない。現代社会は、工業革命による優位性などでヨーロッパの文化が優位に世界中に広まってるのですけど、西洋哲学の真理が優れていて他の真理は劣っているとは誰も決めることが出来ない。結局まぁ、そういう構造主義の行き止まりが哲学と宗教の行きついた先だったりするんですよね。その後のポスト構造主義とか現代思想の流れでも、人類史全体を変えちゃうブレイクスルーというのはまだない。宗教と哲学の歴史というのは、神を生み出して、神を乗り越えて、神を殺して、神を無視する。そんな感じの流れですね。


僕は、ギリシャ哲学のストア派の系譜の思想が好きだったりしますね。これはニーチェだったり最近だとアドラー心理学だったりするんですけど、人間の無力さを認識した上で、よりよく生きるために信念や大義を信じて生き抜くこと。悪いニヒリズムに陥らず、人間の意志の力を信じて前向きに生きる。僕はそんな風に哲学や心理学を個人的に有意義に使おうと思って勉強してますけどね。


出口治明氏は他にも「全世界史」のような、歴史を俯瞰する様な本も書いてるのでそちらも読みたいと思いました。今回の「哲学と宗教全史」も世界の思想を俯瞰するのにおススメです。


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