超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。

「弱い紐帯」という概念は必要だと思った。

弱い紐帯」という概念は必要だと思った。


はい、おはようございます。今日もブログを書いていきますよ。さて、最近ちょっと気になることがあるんだよね。朝起きたときに頭痛が出ることがある。薬を飲めば収まるんだけど、どうにも気分が良くない。だいたい2ヶ月に1回ぐらい主治医のところに行って、そこで10錠ぐらい頭痛薬をもらう。それをちょうど飲み切るくらいのペースで頭痛が起きている感じだから、まあ頻度としては多くもないけど、少なくもない。緊張性頭痛という話も聞くけど、はっきり原因がわからないのが不安だよね。血圧が関係していたら困るなと思ったりもする。実際に測ってみると平均より少し高め程度だから深刻な高血圧というほどでもない。ただ、うちは高血圧の家系だから心配しすぎるくらいでちょうどいいのかもしれない。まあ、この件はまた主治医に聞くとして、今日は別の話題にしてみようかな。


最近ちょっと考えていたのは人間関係のことだ。自分は昔から人間関係が極端に狭い。ほとんど一人きりで生きているような感覚が強い。だから、何度か「人間関係を広げようキャンペーン」みたいなことを試したこともある。ネットで知り合った人と会ってみたり、無理に友達を作ろうとしてみたり。でも結局どこかで疲れてしまって、コンプレックスばかりが強くなっていった。やっぱり自分には向いていないんだろうな、そう思っていたんだけど、最近「弱い紐帯」という概念を知って、ああこれでいいんじゃないかとずいぶん気持ちが楽になった。


弱い紐帯」というのは、人間関係には強い結びつきと弱い結びつきがある、という考え方だ。家族や親友のように濃くて強い関係を「強い紐帯」と呼ぶのに対して、カフェでよく顔を合わせる人とか、ジムで挨拶する程度の人とか、図書館でよく見かける人とか、そういう薄くて弱い関係を「弱い紐帯」と呼ぶ。これまではそういう関係ってほとんど意味がないと思い込んでいた。でも、実はその弱い紐帯があるおかげで、人は孤独感を和らげたり、新しい情報や視点に触れられたりするんだっていう理論らしい。これを知って、ずいぶん肩の力が抜けた。自分には濃い友人関係がない、それが大きな欠陥のように思えていたけど、実はそうでもなかったんだなって。


考えてみれば、ネットの中には自分にもたくさんの関係がある。ブログを通して知ってくれている人、コメントしてくれる人、ただ読んでくれているだけの人も含めれば、結構な数の「弱い紐帯」があるわけだ。そういう人たちとやり取りをしているから、自分は完全に孤独ってわけでもない。リアルでも、ジムで顔を合わせる人や、カフェでよく見かける人がいる。話すわけじゃなくても「また見かけたな」という程度の関係が、自分にとっては意外と大事なんだと思う。


以前の自分は、人間関係は濃くなければ意味がない、親密に助け合える相手がいなければ駄目だ、という偏見を持っていた。でもそれは自分を縛る考え方だった。弱い紐帯でも十分人を支える力があると知って、やっと肩の荷が下りた気がする。別に濃い人間関係を無理して作らなくてもいい。むしろ無理して作ろうとした時に、かえって自分を追い詰めていた。だから今は、カフェで隣に座る人や、ジムで毎回同じ時間にいる人、SNSで何気なく見る投稿や、読んでいる本の著者との一方的な関係も含めて、それが自分を支える「人間関係」なんだと思うようにしている。


考えてみると、人の性格や考え方は「どこに住んでいるか」「どんな場所に通っているか」「どんな人と顔を合わせているか」で大きく変わるんだと思う。どこかで「人生を変えたいなら、住む場所か、付き合う人か、時間の使い方を変えろ」と読んだことがあるけど、まさにその通りだなと。強い関係を作ることにこだわらなくても、日常の弱い紐帯が積み重なって、自分の生き方を作っていくのかもしれない。


だから、今は「孤独だ」とそれほど強くは思わない。弱い紐帯が自分を支えているとわかるだけで十分だ。無理して濃い人間関係を作らなくても、自分の周りにはすでにたくさんのつながりがある。そう考えると、この生き方も悪くないんじゃないかと思うんだよね。

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