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さて、今日の本題。今日は痛ましい事件について私見を述べておく。
目黒で5歳の女の子が両親に虐待されて殺された。その子はこんなメモを残していた。
ママ
もうパパとママにいわれなくても しっかりとじぶんから きょうよりかもっと あしたはできるようにするから
もうおねがいゆるして ゆるしてください おねがいします
ほんとうにもうおなじことはしません ゆるして
きのうぜんぜんできなかったこと これまでまいにちやってきたことをなおす
これまでどんだけあほみたいにあそんだか あそぶってあほみたいだからやめる もうぜったいぜったい
やらないからね ぜったいやくそくします
もう あしたはぜったいやるんだぞとおもって いっしょうけんめいやる やるぞ
これを見て、「一体何だ」と思った。世の中の不条理すべてを罪のない子供に背負わせて殺すのが許されることなのか? この子を殺した両親にも同じぐらいの苦痛を味あわせて極刑に処すべきだ、と思った。
別に、罪に大小はないとは思うのだが、疑うことを知らない子供にこんな事を書かせるような苦痛を味あわせて、その上殺すというのは果たして軽い罪なのかというと、僕はそんなのは許してはいけないと思う。これは私見も含まれているが、社会正義とそれほど違っていないと思う。こんな事件が起こるのがまともな社会のはずがない。歪みを正さないといけない。
だけど、この思いが一体、どの程度正当性を持った感情なのかというのも自信がないのである。ただの私刑じゃないのか?という様な理性が働く。だが、一体、この言葉が生み出す不条理としか言えない悲しみはなんだ。これに憐れみを感じない人間は人じゃない。
さて、まぁこういう感情でドライブしているエントリーなのだが現実的なラインで落ち着かせないといけない。僕らが社会で生きるというのはそういうことだと思う。
世の中には子供を愛せない親がいる。これは仕方ない。おそらく、人間がサルだった頃から子供を捨てるような親は居たんじゃないかと思う。
fujiponさんが今回この事件を扱ったエントリーではこのように書かれている。
僕も含めて、親というのは、ほとんどが多かれ少なかれ「毒親」的な要素を持っているし、子どもというのは、親が完璧ではなくても、大概は、それなりに育つものではないか、と。
そのくらいに考えておかないと、あまりのプレッシャーに、逃げ出したくなるのです。
「親は子どもを愛するのが当然」とはいっても、「愛しているから自由に遊ばせてあげる」という人もいれば、「愛しているから将来困らないように塾に通わせ、習い事をきちんとさせる」という人もいるわけですよ。
まあ、「愛するとはどういうことか」の定義に比べたら、虐待やネグレクトなどの「絶対にやってはいけないこと」は考えやすいとは思います。
少なくとも「それなりの愛情は持てるし、『絶対にやってはいけないこと』はしない」という条件を満たしていれば、あとはもう運、みたいなものでしょう。
ただ、そこで「どうしても子どもを愛せない」あるいは「子どもがいるのはわかっていても、『○○ちゃんの親』ではなく、ひとりの人間として、自分の人生を愉しむことを優先したい」という人はいるわけです。
彼らは困った存在ではあるのですが、だからといって、そういうタイプの人に「親は子どもを愛するのが当たり前だから愛しなさい」って言ったら、愛せるようになるってわけじゃないですよね。
この時代は自由になった。封建時代というのはそれこそ個人の自由なんてものは認められずにすべての人が役割に縛られた社会だったのだと思う。子供を愛して育てるというのは、人間の本能的な行いではなく、社会的な行動でもあったのじゃないかと思う。少なくとも、すべての子供を過不足なく愛情を与えて育てるというのは近代以降の社会制度が発達してからの流行だろう。
だが、近代以降の個人主義が発達した社会が本当に自由だったのかと言うと、違う。それなりに周囲の目を気にしながら、社会との距離感を測りながら自分の思惑を開放するような社会だったのだ。空気とかそういう事だったのかと思うのだけど、完全な自由な社会じゃない。
自分の子供を虐待する様な親であっても社会性や歴史に縛られていたんじゃないかと思う。虐待をするような親というのは連鎖していくと言われている。虐待やネグレクトを受けた子供は、自分がまた子供を育てるようになった時、虐待やネグレクトを行うようになるのだという。今回の目黒のこの事件もその範疇にあったのだとしたら、一方的に罪を弾劾するわけにもいかんだろう。
だが、この様な事件を起こさないように社会の構成員として行動しないといけない。世界の痛みを止めないといけない。
僕らが社会で思考するフレームとしては物語の形を持って考えを展開していくのだと思う。村上春樹が河合隼雄との対談で言っていたことだと思うのだが、正しい物語が共有されないといけない。
リトさんがこういう小説を紹介していた。僕も今読んでいる。読了したら紹介しよう。
文学というものの役割について考えるんだけど、物語は速攻で社会を変える役割ではない。多くの人々が持っている「物語」という型を変えていって、やがて一滴一滴の水が川を作り、海につながるような気の長い話だ。
だがブロガーとはいえ、文字で戦う僕らが社会に提示できるのはこういう悲しむ人が少なくなる価値観なのだろう。社会に対して物語を提出して流れを変えていくのは文字で戦う僕らの義務だ。僕らはできる範囲内で正しい物語を作らないといけない。
だが、即効的な役割を果たすのは行政の仕事なのだと思う。虐待されている子供を見かけた時は管轄区の児童相談所へ。
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