できるだけ自分を客観的にみた方が楽に生きられる。
さて、日曜日であるな。今日はちょっと宜野湾市にある温泉施設の「エナジック天然温泉アロマ」に行ってサウナで整えてきた。
ここのところ多少、メンタルが不調なのである。体の方は問題ないけど、どうも思考がいらんことをもやんもやんと考え続ける不調が続いており、思考を無理矢理にでも止める必要があった。そういうとき、サウナで温冷交換浴をやって、空気浴をやってると思考が瞑想状態になるのである。
「整う」という現象はよくわからんが、どうも最近はネットの風潮ではサウナは危ないものという噂もたってるようだ。しかし、実際に思考がぐるぐるしてる時に、思考の流れを緩やかにできる効果を実感しちゃうとそんなに簡単にやめられないよね。これもタバコやアルコールと同じ常習性を持った嗜好品なのかもしれん。
それと、内地と違って温泉施設が一般的でない沖縄では、この手の温泉施設の入場料がスッゲー高いのである。どこの温泉施設でも入るだけで1500円以上もしちゃうし、毎週常用できるほど僕はリッチメンではない。まぁ、月に2回程度はサウナにも入りたいなとは思う。こんな感じでストレス解消をしておくと、体やメンタルの調子が格段に安定するし、忙しくてストレスが溜まりがちな時こそサウナは行きたいよね。
さて、今日は何を書くかな? 夕方からは自宅でコーヒーを飲みつつ適当にkindleで本を流し読みしてたけど、最近僕が思うのは、仏教でいうところの「慢」であるとか、ソクラテスの言ってる「無知の知」ってすごい重要な概念なんだなという気づきがある。
仏教の「慢」という概念は、自分に対して過剰に自信を持って「自分は偉い」とか「自分のやってることは全て正しい」という判断をしたりとか、逆に自分に対して極端な過小評価をして「自分は価値がない」とか「自分は他人に馬鹿にされても仕方ない」という自虐的な判断をしたりするようなことを指す。
僕はこの仏教の「慢」とソクラテスの「無知の知」は類似の概念であると思うのだけど、ソクラテスの「無知の知」は、自分の知識や判断に対して過剰に自信を持つことを戒める言葉だ。「慢」も「無知の知」も、自分の知ってることや考えてることに対して自分でその価値を評価してはならないと警告してるように思うのである。
自分で自分のやってることに対して、真に客観的に評価をするのは至難の技である。その自己評価が過大評価であるとか過小評価である時の害というのは、経験上とても被害がでかい。誇大妄想を他人に馬鹿にされて気がつくときは運がいい方であり、そのズレた評価で自分の存在価値なんてものを判断した場合、最悪の場合は人生そのものが狂う。
だから仕事のマネジメントなんかでは、常時1on1をやって細かくフィールドバックを返すのが必要だと言われてるんだろうな。会社が持ってる目標と個人の目標を適時擦り合わせておかないと、会社の業績に繋がらないのもあるけど、客観的にみた自分の評価を知ってないと従業員の努力の方向性を決めることもできないし、仕事のモチベーションも失いがちである。
正確に自分のやってる仕事の価値を把握しておくということは、組織にとっても個人にとっても重要なことだ。サボりすぎは論外であるけど、過剰に努力しすぎるのも組織にとって利益にならない。日本人はそういうとこ苦手だよね。必要以上の過剰サービスをしすぎたりとか、製品にも過剰なクオリティを求めがちであるけど、その結果として社会全体が過剰サービスに慣れてしまい、世界の中でも労働生産性が低い国と言われる原因の一つである。
まぁ、僕が述べたいのはメンタルヘルスにおいて「慢」や「無知の知」が重要であるということだ。自分自身の価値であるとか、物事の判断が現実とずれていた場合、強いストレスを感じる原因になりがちである。
「自分はすごいやつであるはずなのにこんなつまらない仕事をしてる」というような判断があった場合には、どれだけ頑張って仕事をしようが超ホワイトの恵まれた環境であろうが、仕事はストレスの発生源である。自分の中の物事に対する期待値と、実際の現実から得られる利益の価値が一致してない場合、どれだけ頑張っても満足は得られない。
このケースでは誇大妄想の方を問題にしたけど、過小評価も問題である。自分に対して自信を持ってない人というのは、どれだけ周りから応援されたり助けられたりしたとしても、そのことに逆に罪悪感なんかを感じたりする。自分のやることに対して価値を信じてないから、自律的に行動することをやめてしまう。その結果、注意を受けたりしてさらに自信を失う負のループに入ってる場合もある。
自分を真に客観視することというのは不可能であるが、楽に生きるためには必要なことだ。できれば適切にフィールドバックを返してくれる友人であるとか知り合いがいればいいのだが、みんなができることではないだろう。こういうことがあると意識しておくだけでも違うのかもしれない。「自分は思ってるほどはすごくないけど、誰にも認められないほど価値のない人間ではない」。僕はそんな感じで自己評価をしておこうと気をつけている。