
常時接続時代に失われた孤独について考える。
さて、このブログを書いてるのは日曜日に晩飯を食った後にブログを書いている。モニターの片方では「水曜どうでしょう」を流しており、ダラダラと気を散らしながら文章を打ちまくってる感じである。
今日の晩飯は母親の見舞いに行った時に貰い物でジューシー(炊き込みご飯)をもらったので、スーパーで色々と惣菜を買ってきて晩飯を食べた。スーパーの棚を確認していると長野の「おやき」があったので購入。以前、長野の法善寺に行った時に食べて、割と美味しかったのである。
今日はまぁ、朝は食材の買い出しに行ってきて、昼頃は母親の見舞い。午後はサウナに行ってくるなどのお休みであった。休みの日は休むことの重要性というのはすっごく重要だなと思うところ。週末休みで疲れを抜くことができないと、来週に体調を崩すこともありうるしな。
というわけで、僕は今非常にまったりと自室でブログを書いている。気分的に雑念がない感じであり、調子は好調。今日はサウナで風呂も入ったので、あとは皿を洗い、小説を書いて寝るだけである。落ち着いた調子で日曜日の夜を過ごすことができており、良い感じに過ごすことができている。
今、Audibleでは「スマホ時代の哲学」という哲学本を読んでおり、それを聞いて色々と考えるところがあるなーという感じ。
スマホ時代というのは、集中力を常時奪い続ける端末を常に持ち歩いてるのが問題あるよねーということが書かれていた。なんとなく、僕自身の普段の生活の中で感じる実感もそれと同じであるし、この本は色々と気づきが多そうである。
普段、僕が仕事をやっていても、いろんなマルチタスクをしながら作業をしているので、常に集中力がネットの向こうに奪われている。これは、ネットを通じて人間関係というのが世界中に無制限に広がってしまった結果、常にいろんな人と常時接続でつながりっぱなしであり、24時間常に誰かとコミュニケーションを取っている。
現代の情報社会では「アテンション・エコノミー」ということで、人の注意を奪うことが利益になるということで、すべての人が他人の集中を奪うためにいろんな行動や発言をしている。SNSでは、素人でも承認欲求を満たすためにいいねを集めようとして他人の集中力を奪っている。
これはさ、単にSNSで誰かと直接コミュニケーションを取ってることだけを指すことではなくて、なにかしらのニュースを読んだりとかソシャゲなんかをやったりもそうなんだけど、常に誰かの意図により集中力を外に持っていかれており、自分自身のために自分のことを考える時間が奪われて自分の分がない。
スマホ時代というのは、常になんらかの暇つぶしのコンテンツにより気を散らし続けてる。これは、承認欲求を満たせない不満であるとか実は群衆の中で認められず寂しい不安なんかもSNSを通じてその不満を吐き出して、それを承認されるように頑張り続けてる。喉の渇きを癒すために海水を飲んでるのと一緒である。
相対的に、過去の時代と比べて現代は「孤独」の価値が上がっている。人々は24時間常にオンラインに接続しているのであり、寝ていようがトイレにいようが誰かと繋がっている。本当に一人になりたいと思うのなら、スマホを捨てて山奥にでも逃げるしかないのであり、現代だと本当に文明から絶たれたそういう生活がしたいならかなり金を積む必要がある。
「孤独」というとネガティブな意味の言葉に聞こえるかもしれないけど、何かの創造的な作業をして成果物を仕上げようと思うのなら、一人になる時間というのは不可欠だ。小説を書いたりするのでもそうだけど、創作というのは他人と相談しながらやるものではない。孤独に静かで一人になれる時間の中で、いろんなインスピレーションをめぐらしてその中からアイディアを得るのである。
それと、現代のSNSでは、簡単に感情を外に吐き出せる環境がある。苦しいことがあればその不満をTwitterなんぞに放り出せば誰かが読むし、承認欲求だろうが怒りだろうがなんだろうがネット空間に放り出せる。これは創作のためにはあんまりよろしくない。
感情のエネルギーというのは吐き出せば消えてしまう。創作をやろうと思うのなら、その感情が持っているいろんな細かなディティールというのは、創作の材料になるのだけど、感情を抱えきれずにすぐに発散させる癖がついてしまうと、物語に粘り強さがなくなってしまう。表面上だけの浅い感情表現だけしかできずに、その感情の深いところを作者自身が理解できてないということが起きるだろう。
物語というのは言葉を紡いで書き出すものだけど、実際のところその行間にあるディティールが重要だ。そのキャラクターの間にある質感であるとか、その気持ちが心に引き起こす動きとか、そういうのは感情を抱えて孤独の中で反芻することでしか見えない。
現代のSNS時代は、ネガティブな感情は全部吐き出して忘れようとみんな頑張るし、実際に、虚無感を埋め尽くすぐらいの無限にコンテンツが溢れている。電気が生まれて街から闇が消えたように、無限の他人との繋がりで心の中から不安を消そうとしている。
それで闇が失われた現代の世界というのは、平板でのっぺりとして何もかもがフラットで、物分かりが良くて薄っぺらな世界なんだろうなーと思う。科学が進歩していった結果、不安であるとか無意識の部分まで合理化しようとしてるけど、おそらく、その結果生まれたのは埋めようのない欠落感だ。
で、その欠落を埋めるためにまたみんなSNSに共有して他人に縋ろうとするのである。こりゃもう構造的な欠落みたいなもんで、悪循環だよなーと思う。それでどうこうは言うつもりはないけど、僕的には「SNSなんてやらない方がいい」としか言いようがないんすよ。ネガティブな感情を抱える強さと言うのがなくなるから辛くなるし、逆に超正常刺激な拡大解釈された悪意ばかりが拡散されるし。ほんと、どんな世の中もめんどくせーことばっかですよな。
