自分を知るためには多くの人と話してみるべし。
自分が理解している自分は当てにならない。
なーんかさ、自分は、人と話すことが億劫な割に、誰かに頼られたりしたら全力で走り始めるよね。普段の自分はそんなに多弁なタイプではないのよ。話すのがめんどくさくて、話は聞き手に回るタイプ。でも、何か「君だから頼みたい!」とか言われちゃうと、途端に熱血漢になり始めて、色々と仕切ってリーダーもできるタイプである。
自分は本来、管理職とかはまったく向いてないと思ってたのだけど、前職とかでは中間管理職もやっていた。なんかさ、人間関係とかを観察して、その中で誰がこの仕事に向いているか判断して根回ししながら仕事を回したりするのが得意みたいなんだよね。
自分が理解している自分自身の事などたいして当てにならない。他人との関係性の中でこそ、本当の自分が分かる。それと、立場が人を作るというのは、よくある話のようである。僕は組織の中でリーダーとかはできるタイプじゃなかったのよ。でも、役職が付いたりしたら、自分で考えて飲み会を主催したりとか、この部下に必要な課題は何なのか?とからしくない事を考えてプランを立てたりとかしていたのである。
今回は自分の理解している自分など、なんのあてにもならん!ということについてでも書くとするか。
自分探しで本当の自分はみつからない。
「自分探し」ってキーワードあったりしたじゃないですか? 今どきの若者はそんな事しているんですかね? まぁ、僕らが大学生ぐらいの時にはまだ生きていて、バックパッカーの旅に出掛けたりする若者なんてものはまだいた。
でも本当の自分なんてものは、どっか遠くを旅したりとか書籍に耽溺したりしなくても、そこらへんにいる色んな人と話してみたらよく見える。
自分はこの自分探しというやつで、青春時代の頃は随分とつまずいた。あまりにも暗い自分の性格に悩んでしまって、大学は心理学科を専攻して、自分探しをやってしまったのである。
高校時代の自分は兎に角暗かった。図書館に籠もって、哲学書やら世界文学全集みたいな本ばかりを読み漁り、付き合ってる友達もヤンキーしかいなかったという風な状況であった。や、これもよく分からんな? なぜか知らんけど、ヤンキーがタバコ吹かしてるそばで座り込んで哲学書を読んでる風な変な高校生だったのよ。あの人達ははぐれものに優しいよね。
大学に入ると、また本格的に拗らせはじめ、図書館とバイト以外はほとんど外出しないみたいな暗い人生を送っていたよね。自分の性格を知りたくて、心理学関係の本やら論文をバリバリ読んでた。新興宗教などにかぶれなかったのが唯一の救いである。
ドストエフスキーの「罪と罰」の主人公、ラスコーリニコフがいるじゃないですか? まさしくああいう拗らせ方。人と上手く話せないくせに、自分は理由もなくすごいの万能感に酔っており、人を馬鹿にしながら話しているみたいな。人嫌いが強すぎて、常に一人暗い目で本を読んでいる、みたいな若者でした。
なんか、新卒の頃も、まだその拗らせを継続していて、自分は仕事ができる!という訳の分からん万能感のまま突っ走り、毎日自己啓発本一冊を読破して悦に入る、意識高い系に成り果ててましたよね。
いま程度に性格がマイルドになったのは30代に入ってからである。後から見れば分かるけど、自分はなんかしらんけど凄い!みたいな、訳わからん全能感に振り回されていたんだけど、30代に入ったら「なんか、自分は大したこと無いな」ということが分かり、肩から力が抜けた。
あのさ、よく本とか読んで自分探しをしている人が居るけど、自己啓発本で紹介されてる様な本当の自分というのは、あれは読んで気持ちよくなるためのドラッグみたいなもんなんですよ。意識高ぶらせて頓珍漢な方へ突っ走ってしまう。本で自分探しをするのであれば、せめて小説で生き方に共感できるようなフィクションを探したほうが良い。
本当の自分というのは他人との関係性の中でしか分からない。
本を読んで自分を理解しようとするよりは、いろんな人と付き合ってみる方が本当の自分が見えてくるというのが暫定的な自分の結論である。
人は自分を写す鏡というか、同じものをみても自分と他人では感じ方や考え方が違う。その差異の中でこそ、本当の自分というのは分かるものだと思うのだ。
本当の自分というのはそこまで高尚なものでもない。ほんの些細な日常な小さな出来事の中で、人が気づかないようなことに気が付くところに自分というものが現れているのはあるあるだ。人と話してみることで、自分と他人との差が見えてきてその差こそかけがえのない自分自身だと気が付くこともあるだろう。
まとめ
「敵を知り己を知れば百戦危うからず」というのは孫子の言葉であるが、実戦でパフォーマンスを出すためには己のことをよく知ってないと実力を出せない。本当の自分というものは他人との関係性の中で顔を出すものである。頭でっかちに自分の内面を掘り下げたところで自分というのは半分ぐらいしか分からないものだ。
馬には乗ってみよ、人には添うてみよ。それは自分を知るためでもある。