超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。

仏教の慈・悲・喜・捨の概念について考えていた。

仏教の慈・悲・喜・捨の概念について考えていた。


おはようございます。今日はスポーツの日で世間は休みだけど、うちは公休日でも普通に出勤日。まあ仕方ない。明日は病院の受診があるから休みを取っていて、夜は親戚の兄さんと久しぶりに飲みに行く予定だ。この兄さんとは二か月に一度くらいのペースで顔を合わせていて、仕事や生活の話をするだけなんだけど、気心が知れている相手と飲むというのは貴重だ。僕は人間関係が狭い方なので、気を使わずに話せる人とだけ付き合うようにしている。無理をして広げるより、深く話せる関係を保つ方が性に合っている。

さて、土曜日には仏教関係のウェビナーに参加した。テーマは「四無量心」――慈・悲・喜・捨の四つの心についてだった。特に今回は「慈悲の心」に焦点が当てられていて、他人の苦しみに寄り添い、その苦しみを少しでも軽くするという考え方を学んだ。面白かったのは、これが単に他人を助けるための教えではなく、自分の心を癒やすための実践でもあるという点だ。人を思いやることで、自分の気持ちが整うというのは、なるほどと思う。

僕が特に印象に残ったのは、「慢の心」と「喜の心」の関係だ。慢というのは、人と比べて自分が優れていると思ったり、逆に劣っていると感じて卑下したりする心だという。それを和らげるのが「喜の心」だと教わった。他人の成功や幸福を自分のことのように喜ぶ――それが「随喜の心」だ。これを意識してみると、確かに自分の慢心がすっと溶けていく感覚がある。人の幸せを喜ぶことは、妬みや比較から自分を解放する行為でもあるのだ。

世の中には、喜んでいる人がたくさんいる。街を歩けば、笑い合う人たち、成功して満ち足りた表情をしている人がいる。そういう姿を見ると、自分とは違う世界にいるような気がして、つい距離を感じることがある。でも、その瞬間に「自分も同じ人間だ」と思えるかどうかが分かれ目だ。人の喜びに共感し、「あの人が幸せなら、それでいい」と思えたとき、自分の中の苦しみは軽くなる。これは単なる精神論ではなく、心理的な実践でもある。

慈悲の心も同じだ。仏教でいう「悟り」は、自分の心を鎮めて終わりではない。そこから他人に向かって働きかけるところに意味がある。冷静になった自分の心を、人のために使う。それが本当の「智慧」だと感じた。悟りは閉じたものではなく、他者との関係の中で循環していく。自分一人で完結する悟りなど存在しない。人と関わる中でしか、人は本当の意味で安らげないのだ。

僕自身が瞑想を続けているのも、そういう実感があるからだ。瞑想を通してメタ認知を鍛え、自分の感情や思考を俯瞰して見る。そのうえで、苦しみを減らす行動を選び取っていく。たとえば僕にできることといえば、こうしてブログで考えを発信することだ。もしかしたら、同じような苦しみを抱えている人が、それを読んで少し気が楽になるかもしれない。そういう「ささやかな他者への働きかけ」こそが、僕にとっての慈悲の実践なのだと思う。

人間は、けっして一人で生きているわけではない。食事をするにも、それを作る人がいて、家で電気を使うにも、燃料を運んでくる人がいる。そう考えると、自分の生活は世界の無数の人々に支えられている。これが仏教でいう「縁起」という考え方だ。全ての存在はつながっていて、どれか一つが欠けても今の自分は存在しない。だからこそ、他人を思いやる心は、結局は自分を支える心でもある。

瞑想は、心を落ち着かせるための身体的訓練でもあるが、同時に生き方そのものを変える実践でもある。どんなに心を静めても、そこから他者に向かって何かをしようとしなければ、瞑想は自己満足に終わる。慈悲や喜の心を生き方として実践する――これが仏教の核心であり、現代人にとっても有効な生き方だと思う。

正しく生きようという気持ちは、決して道徳的スローガンではない。日々の中で、自分の感情を観察し、人の幸せを喜ぶ。それが回り回って、自分の生きやすさをつくっていく。そんなことを考えながら、今日も仕事に向かおうと思う。

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