僕には純文学は書けない。
今日は午前中は食材の買い物に行ってきて、午後から小説執筆者の集まりの会に行ってきた。しっかしまー、この会についてはあんまり詳細に書きすぎるとピンポイントで身バレするやつだな。参加者が増えたりとかしたらブログ上でも紹介してもいいかもしれないけど、現時点ではぼかしながら語るとする。
現在、日曜夜恒例のサザエさん症候群により非常にダウナー。元々得意ではない対人コミュニケーションを頑張ってきて、気力が消耗した状態で神経がヒリヒリしちゃってろくに頭が回らない。帰りはブルーシールに行ってきてアイスクリームを食べて、自宅でビリー・アイリッシュの「HIT ME HARD AND SOFT」を流しながらブログを書いている。
どうも僕は人と会おうとすると過剰適応してしまってだめだな。必要以上に空気を読もうとして疲れ果ててしまうし、力尽きるとダウナーに沈み込む。なんか、僕が「なるべく人と会おうキャンペーン」でこういうコミュニケーションの頻度を増やしてるのは、ものすごく人間力が鍛えられると思う。僕は空気を読めないのに空気を読もうとして力尽きたりすることが多いが、表面上のコミュニケーションというのはできなくもないので、体裁だけは整えるのがうまい。
今回の小説執筆者たちの集まりの会に参加してみて、まぁ、色々な好影響を受けることができた。やっぱり、小説を書いてる人というのは、孤独の中で方向性見出せずにぐるぐると頭の中で悩み続けていることが多いし、そういう人が僕だけではないと知ることができただけで成果であった。
それと、僕が書いてる小説というのは東方の二次創作にせよ、オリジナルの玲と真輝のシリーズにせよ、エンタメ路線を書きたいと思って書いてるのだけど、純文学を志してる人の視点というのは、同じ小説を書いてるのでも全然違うのだなと発見があった。
僕の書き方というのは、わりかしプロットをしっかりと組んだ上で、一つ一つのシーンでどのようにキャラクターが動くのか映像で想像できるところまで詳細な設定を煮詰めた上で執筆を行う。僕が小説を書いてる時は、自分のオリジナルで作ったアニメが脳内で上映される状態になるまで、その場面の想像を膨らませた上で実際の執筆を行うことをやっている。
参加者で純文学を書いてる人の話を聞くことがあったのだけど、物語の頭の方から順番に書いていくような感じで、自分の体験や感じたことなどの内面の対話を通じて文章を書き出すことをやるらしい。そもそも純文学ではプロットを重視しないらしいね。
僕はこうやってブログでは毎日思いつきの文章を書くことができてるけど、純文学というのは書くことができる気がしない。ブログでも必要以上に自分の内面を掘り下げすぎてる気がしなくもないけど、それを文学の形で提示するのは多分無理。
やー、ここまで自己分析ばっかりをやってる僕ではあるけど、自分の内面と真正面から向き合うというのは怖くて無理なんだよね。何か、心理学であるとか哲学のような理論や概念を介して、こころの中のモヤモヤしたことに形を与えるようなことはしてるけど、心の中の不定形な過去の記憶に直接向き合うのは怖くてできない。
ちょっと、僕も一度、自分の病気の実体験を純文学の形式で物語として書いてみようと試みたことはあるのよ。でも、自分の神経の方が持たなかった。過去の忘れているトラウマを掘り返して、それを詳細に記憶を呼び起こすというのは、メンタルヘルスにとってはとてつもない自爆行為であり、あんなことをやってたら病気が再発する。
僕がいろいろと小説やブログでこんな風に文章を書いたりするのは、自分にとってセラピーの一環になってるところもある。でも、僕はこころの深い所にある暗闇については覗き込まないようにしてるのよ。そういう場所というのは、理屈であるとか道理というのが全く通用しない場所であるし、そこに近づきすぎると自分の人格まで変な歪み方をして元に戻れない気がする。
ニーチェの有名すぎる言葉に「深淵を覗き込むものは気をつけよ。その時、深淵もお前をみてるのだ」という言葉があるでしょ。あれはわりかしマジである。深淵の方にある原形質な無意識というのを覗き込んでしまうと、下手をすると自我が無意識に飲み込まれて戻れなくなる。
僕は統合失調症を患ったことがあるけど、あれはサメに襲われて深海に引っ張り込まれるような感じで、自我が無意識の深い部分まで無理やり引きずり下ろされて、現実が全部無意識に侵食されるような状態である。
これはカール・グスタフ・ユングの神話の研究で、世界各国の神話を研究してる時に共通点が見つかったことから提唱された「普遍的無意識」という概念があるけど、人間の自我の理性的な部分を取っ払っていくと、神話の共通点とされるアーキタイプにも似た類似した妄想というのが出てくるんだと思う。
ちょっとさ、僕も興味本位で統合失調症の研究論文とかを読んだりすることもあるんだけど、体が勝手に動かされる体験とか全世界の人々に自分の思考内容が盗聴されてるような体験とか、その辺りは実体験で分かるのよ。「あぁ、あの体験ね」と論文に書かれてるような概念が自分の記憶の方で経験として分かるのだけど、おそらく統合失調症の妄想をある程度整理して類型していくと「普遍的無意識」として出てくる、なんかヤバげでひたすら怖いだけのおっかない原形質の妄想の根っこが出てくるんだと思う。
勘違いしちゃならんのが、統合失調症を患うことで普遍的無意識に近づくことが、神々しい奇跡体験として経験する人もいるのだけど、ほとんどの人はそのまま妄想に飲み込まれてしまう。向精神薬でちゃんと脳内の化学物質のバランスを整えないと、そのまま自我が壊れて戻れなくなる。こういうのを過去の時代のシャーマンなどは、運よく理性を残したまま普遍的無意識のイメージを捕まえて、それを人々に物語として伝えていけた人だけが生き残ったのだろう。
純文学に話を戻すけど、村上春樹さんが作品の中で「壁抜け」と言っている、向こう側の世界に行ってそして何かを得てきて戻ってくる体験というのは、おそらく実際に無意識の中に潜っていき、そこで得られた経験を物語として抽出してるんだと思う。これは宮崎駿監督の「君たちはどう生きるか」でも、もろに「向こう側」をそのまま映像として描いちゃったりしてるけど、これらの文豪や創作者が無意識に潜れるのは強い自我を鍛えてあるからである。フツーの人たちは、向こう側に行ってもそれと分からなかったり、戻ってこれたとしてもこの無意識に形を与えて人に伝える言葉を持たない。
僕もいずれ自分の経験してきたことを純文学形式で書いてみたいと思うけど、無意識に恐怖心を感じるうちは無理なんだと思う。病気を再発させる訳にもいかないので、やっぱ僕はエンタメを書いてるのがいいんだと思う。