
言語化をしっかりとやることはメンタルにもいいんだよね。
はい、おはようございます。今日も朝ブログ書いてくよーって感じであるね。なんか気分はいまいちなんだけど、ブログ書くと不思議と気分が戻ってくることがある。これがまた、毎度のことながら面白いんだよね。別に大したこと書いてるわけじゃないし、だらだらと日記みたいな文章を積み上げてるだけなんだけど、それでも頭の中の言葉を一度ちゃんと形にして吐き出すと、自分の気分がどんな状態なのか見えるようになる。この“見える”ってのが大事で、それがそのままフィードバックとして働くんだよな。
仕事とか趣味での成果なんてのは別に大きくないと思ってるけど、ブログだけは毎日書き続けてきたわけで、3300日以上続けてるんだから、これはもう自分でも「よくやってんじゃねえの」くらいに思う。ブログを書く習慣って、気分の安定装置みたいなところがあるのよ。心の中にモヤモヤを放置してると、あれはもう本当にストレスしか生まれない。だけど文章にしてしまえば、ただのイメージだったものが整理されて、扱いやすい形になる。
僕はかなりのメモ魔で、起きてる間ずっとスマホでメモ取ってるんだけど、これも結局同じ理由なんだよね。ライブログみたいなとこで5年以上、分単位でだらだら思ったことを書き続けてるけど、それで自己肯定感が支えられてる部分は確実にある。「書くと本音が出てくる」ってのはほんとにそうで、自分でも気づいてなかった気持ちが文章にしてみて初めてわかることも多い。例えば疲れてるときでも、“どんなふうに疲れてるか”を書いてみたら案外大したことなかった、なんてのはしょっちゅうある。これはコーピングにも近いし、ジャーナリングとも似てる。
ただ言語化には罠もあって、言葉にすることで逆に引っ張られるってことがあるんだよね。例えば本当はそこまで疲れてなくても「疲れた」って書いた途端に疲れが強化されるみたいなやつ。僕なんてよく「人生に疲れた」とか書いてしまう。主語がでけえのよ。ただちょっと疲れてるだけなのに、勝手に人生規模に拡大してる。こういうのは言語化の悪いところ。でもまあ、一度言葉として外に出たやつは後から理性で修正が効く。「主語が大きい」「論理が粗い」って自分で突っ込むことができるのが救い。
普通の人はそもそも言語化が得意じゃなかったりするし、短文のSNSでしか思考を動かせない人も増えてる。そういう中で、長文で考えて、自分の思考をゆっくり扱うことができるってのは、実は結構レアな能力なんじゃねえかなと思ってる。理性で思考を扱うってのは、それだけで生活のペースが整うし、自分の機嫌も多少は調整しやすくなる。
最近は、ただ日々の気分を書くんじゃなくて、少しは人が考える余白みたいなものを書くべきかどうか考えたりもしてる。まあ無理に背伸びする必要はないけど、書いてる本人の気分が整うだけじゃなくて、読んでる人にちょっとでも何か残ればそれでいい。