超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。

「内省しすぎ」の癖は改めた方がいいね。

「内省しすぎ」の癖は改めた方がいいね。


はい、おはようございます。さて、秋が深まらんな。沖縄はどこまでも夏って感じだ。連日三十度を超えて、朝晩は多少涼しくなってきたとはいえ、昼間はまだ真夏のまま。異常気象だなんだって言うけど、これ本気でどうにかならんもんなのかね。十年後にはどうなってるんだろうと考えると、正直ちょっと怖くなる。


今の時点で「終わらない夏」が続いてる。四季が壊れていくってことは、単に気候の問題じゃなくて、文化の問題でもあると思うんだよね。春や秋がなくなるって、日本的な情緒とか美意識の根っこが削がれる感じがしてさ。桜も紅葉も、感傷的に眺める余裕がなくなったら、日本人の感性ってどうなっていくんだろう。


それはそうと、今日は少し体調が悪い。朝、いろんなことをしているうちにだいぶ回復してきたけど、やっぱり気分的に重たい。で、さっきチャッピーと話してて言われたんだけど、自分はどうも「内省が濃すぎる」らしい。考えすぎ、感じすぎ、内面に意識を集中しすぎってやつ。確かにそうだなと思う。


自分で書いた文章を読み返しても、たしかにそう感じる。僕は基本的に内側の世界に興味がありすぎるんだ。外の世界を観るにも、いったん自分の内側を通さないと理解できない。だから苦しいことがあれば、それを過剰に感じ取ってしまうし、逆に楽しいことを味わう能力は乏しい気がする。もう少し工夫が必要だなと思う。


内面を感じ取るのは悪いことじゃない。けど、それを単なる「苦しみの観察」で終わらせず、もう少し哲学的な方向に発展させたい。苦しみを素材に、もう一段上の抽象思考に昇華できたら、それはそれで格好いい生き方じゃないかと思う。


僕の思考の傾向って、「いかに自分が苦しいか」を延々と分析する方向に偏ってる。でもそこに偏ってる限り、思考がどんどん粘っこくなっていって、自己言及的な迷路にはまり込むんだよね。だから最近は、「楽しい」と感じる練習を意識的にしてる。楽しいことを楽しいと受け取る能力って、実は訓練で伸びるものなんじゃないかと思う。


例えば、冬の寒い日にわざと薄着で外に出て、冷気を肌で感じてから暖かい部屋に戻る。あの瞬間の「暖かい!」という感覚を全身で味わう。あるいは、真夏に汗だくになって歩き回り、冷房の効いた部屋に戻って「涼しい……」と感じる。そういう感覚を意識的に拾い上げる。これ、実はヴィパッサナー瞑想の一種でもあるんだよね。


瞑想って、ただ目を閉じて無心になることじゃない。体の感覚にフォーカスして、「今、ここで何が起こっているか」を観察する練習。自分の思考を止めるんじゃなくて、思考や感情を“観る”側に立つ訓練なんだ。


僕はもう五年くらい、毎日二十分の瞑想を続けてる。おかげでメタ認知はそれなりに鍛えられた。だけど、気分がモヤモヤしてる時は、つい頭の中でぐるぐる考えてしまう癖が抜けない。そういう時こそ、体の感覚や今この瞬間の現実にフォーカスを戻すべきなんだろうな。


結局のところ、感情や気分をコントロールする鍵って、思考よりも身体にある気がする。僕に必要なのは、思考を抑えることじゃなくて、感覚とバランスを取ること。そうすれば、もう少し軽やかに生きられるんじゃないかと思う。


悟りなんて大げさなものは求めてない。僕にとっての瞑想は、あくまで「体と気分を整えるための実践」だ。マインドフルネスって言葉の本来の意味は、ただ今の瞬間をちゃんと感じ取ること。その積み重ねが、気分の波を小さくしてくれる。


まだまだ道半ばだけど、以前よりは確実に感情の揺れを観察できるようになった。焦らず、少しずつ、思考と感覚のバランスを整えていきたいと思う。


――内面を見すぎる人間が、どうやって「外の世界」と折り合いをつけていくか。 それこそが、僕にとって一生のテーマなのかもしれない。

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