超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。


SPONSORED LINK

ブログで書く文章で気を付けていること。

ブログで書く文章で気を付けていること。


メンタルの調子が悪い。調子が悪い時に調子が悪いことを書き綴ると、かえって調子が悪化していくのである。一体まぁ、こんな思いをしながらも毎日更新を続けることにどんな意味があるのかなと思うのだけど、これは自分のライフワークになってるしひとまずは規定文字数を書き綴ろうと努力は試みてみるのである。


まぁ、最近はうまくブログを書き綴ることができたのなら2000字は書こうとしているけど、よっぽど調子が悪い時はさっさと短縮版で終わってしまうことを覚えた。ほんと、精神的自傷なのかなんなのか分からないけど、調子が悪い時に何度も傷を義務感で抉りまくることもあったので、自分的には成長である。調子が悪い時はさっさと切り上げて短縮版で終わって寝てしまうのが一番だ。


あんまり当たり障りのないことをぱっぱと書いてしまおう。最近は朝4時半に起きて朝活でブログを書こうと試みているけども、やっぱり朝活というのは難しい。体調が良くて気合いが入ってる時は朝に起きてブログを書くこともできるけど、今日みたいに調子が悪い日は制限時間内でブログを書く苦痛を感じてしまって、仕事の勤務時間中に周りの目を盗んでブログを書いている。や、別にタイピングをしているだけなので周りからみた感じでは普通に仕事をしているように見える。別にそれほど良い給料を貰ってるわけでもないし、これぐらいの息抜きぐらいは大目に見てほしい。


初っ端からネガティブなことをダラダラと書き綴ったではあるが、ブログ全体のテーマとしてはポジティブなことでまとめてしまいたい。時間がない時のブログはフリーライティングで書いている。何かネタを最初で考えて書いているのではなく、書きながら何を書くかを考えて綴っているのである。こりゃま自分のブログの書き方の基本となっていて、毎日の更新は1時間ぐらい適当にキーボードをタイプすることで作成されている。何が出てくるかは自分自身でも完成するまで分からず、そのインタラクティブ感を楽しむためにブログを続けている部分がある。


フリーライティングは現象として面白い。人間というのは自分自身では何を考えているかを完璧に把握しているつもりかもしれないけど、実際にフリーライティングをしてみると文章を綴る手の動きで自分の思いもよらぬ文章が綴られていくことがわかる。よく、モーニングページとかいう風な方法で、朝に大学ノート3ページばかり思いついたことをジャーナリングしてみる習慣というのがあったりするけど、あれも似たような現象で自分の無意識と対話する方法なのだろう。


フリーライティングとかジャーナリングの習慣で参考になる文献としては、ナタリー・ゴールドバーグの「魂の文章術」はすごく良い本だと思う。



この本では文章修行と称して、ナタリー氏が毎日文章を書き綴ってきたことから考えたことなどがまとめられている。僕のブログでも感想を書いたことがあったはずなのでリンクを貼っておこう。


www.ituki-yu2.net


ナタリー氏のいう文章修行とは次のようなやり方だ。

文章修行の基本は、制限時間を決めて行なう練習だ。十分でも二十分でも一時間でもいい。それはあなた次第。最初は短い時間から始めて、一週間したら時間を延ばそうという人もいるだろうし、最初から思い切って一時間とる人もいるだろう。時間の長さはたいして問題じゃない。たいせつなのは、何分、何時間であれ、自分が決めた練習時間のあいだは完全に没頭することだ。

 次に、書く際のルールを挙げよう。

1.手を動かしつづける(手をとめて書いた文章を読み返さないこと。時間の無駄だし、なによりもそれは書く行為をコントロールすることになるからだ)。
2.書いたものを消さない(それでは書きながら編集していることになる。たとえ自分の文章が不本意なものでも、そのままにしておく)。
3.綴りや、句読点、文法などを気にしない(文章のレイアウトも気にする必要はない)。
4.コントロールをゆるめる。
5.考えない。論理的にならない。
6.急所を攻める(書いている最中に、むき出しのなにかこわいものが心に浮かんできたら、まっすぐそれに飛びつくこと。そこにはきっとエネルギーがたくさん潜んでいる)。

ナタリー・ゴールドバーグ. 書けるひとになる! ――魂の文章術 (扶桑社BOOKS) (Kindle の位置No.257-263). 株式会社 扶桑社. Kindle 版.


僕のブログの書き方も、ナタリー氏の文章修行のやり方と似たような感じで綴られている文章ではあるが、ブログで人が読むところに公開する文章ということでなるべく露悪すぎる表現やネガティブすぎる内容は書かないようにしている。これは、ブログというのが他人とのコミュニケーションの場でもあるからだ。ナタリー氏のやる文章修行で書かれる文章というのは、全く無意味なことや自分の精神を抉るプライベートなことまで書くのだという。そういうある種の露骨な文章は、不特定多数が読む心理的安全性の低い場所では書かない方が良い。いや、本当に自分の内面の柔らかいところをブログやSNSのような場所で書いて、それを否定するコメントなどを受けた場合、最悪の場合は致命傷になって立ち直れなくなる。


自分の中の衝動と、他人の目から受ける束縛。そういう微妙なパワーバランスの中でブログを書いているのだけど、ここんところをうまく調整する術を身につけることは人間的な成長にもつながるのではないかなと僕は思うのである。自分の中のちょっと思いついただけの本当に瑣末な思いつきまで周りの人たちから喝采を受けようだとかいうのは、虫が良すぎる話である。表現というのは、型を守り、型を破り、型を離れていくものだ。自分の中のほんの瑣末な出来事が、本当に何も磨かずに他人からも喝采を受けるような凄いことだと思うのは誇大妄想がすぎる。僕は情報発信をしたり小説を書いたりしてきたから分かるけど、自分の中での特別な出来事でも、それを他人が読んでみてすごいと思わせるためには色々と装飾をしたり表現を工夫しないとならないのである。


僕がこうやって文章を毎日綴っている時に工夫していることは、このブログで書かれていることは独り言ではあるけど、本当に誰にも読んでもらえないような無意味な独り言にはしないように気をつけているのである。ちゃんとできてるかどうかは分からないけど、構成を工夫してちゃんとオチをつけるようには気を配っている。表現というのは誰にも読んでもらえないのは表現ではないし、多くの人に読んでもらっても心がこもってないと表現じゃない。

プライバシーポリシー免責事項